私たちは神のかたち
「アイデンティティ」…自分自身のよりどころ。
「セルフイメージ」…自分が抱く自分の像(かたち)。
以上の言葉を耳にします。
「自分探しの旅」なんていう言葉も耳にします。
自分はなぜ生まれたのか?
自分は何者なのか?
今の自分は本当の自分なのか?
本当の自分がどこかにあるのではないか?
それがわからない。
それが知りたい。
ではその起源を知りましょう、
ということで、4月17日の礼拝では、創世記1章26節~27節から「私たちは神のかたち」というメッセージをしました。
私たちは神のイメージ。
この世界を造られた、この世界からは見えない創造主を、見える世界に映し出すと私たちになる。「ならば私たちは神なのか?」世の中でも「この人は神!」とか「神対応に感動!」とか表現します。でもあくまでも「私たちは神のかたち」。
「神のかたち」は、複数にして一つの存在。一つにして複数の存在。
私というひとりで一つの神様を表す。私たちという複数でより大きくてより豊かな一つの神様を表す。学校や企業や軍隊や国の営みをあたかも一つの存在として、擬人化して表すことがないですか?
「神のかたち」は、治める(支配する)存在。
昔、広大な領土を治める王様は、王の像(かたち)を全国津々浦々に置いて、その権威と支配を知らしめました。辺境の地に住む人は本物の王様に一度も会わなくても、王の像(かたち)を見て、王様がどういう人かを知りました。私たちは動かない王の像(かたち)ではなく、生きた「神のかたち」。地球上の一番深い海の底にも、一番高い山の上にも、はたまた月や火星にも、人が行こうとする理由が何となくわかりませんか?
そして「神のかたち」は、男と女、親と子で表現する存在。
創世記5章に神のかたちが男と女だけではなく、親と子という関係をも表すことが記されています。「じゃあ、神には男と女、親と子があるのか?」あくまでも「私たちは神のかたち」。私たちの男と女、親と子という役割や関係によって、神様をよく表現することができる。
では私たちによって、神様の何を表現するのか?
神様の豊かな命、慈しみに富む支配、あふれる愛です。
でも私たちの営みは命を生み出さずにたくさんの死を生み出すことがあります。
支配という言葉はあまりいい響きがしません。
男と女、親と子という関係も傷んでいます。
だからこそ、今一度、そして常に、神の言に耳を傾けるべきではないでしょうか?
自分を知るために、もっと神様を知る必要があるのではないでしょうか?
ということで、
4月24日の礼拝は、創世記1章26節~28節から「祝福とは何か?」という題でメッセージです。