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幸い。主のおきてを喜び楽しむ

人間は歌うのが大好きです。悲喜こもごも歌う。人生を歌う。それは告白です。慰めや励まし、そして喜びです。それは1人よりもたくさんで味わうほど大きくなります。聖書の詩篇も人生のあらゆる悲喜こもごも歌っています。しかも神様に向かう歌であり、祈りです。また神様の言葉そのものとも言えます。聖書ですから。人生に歌を。さらに人生に詩篇を。ということで、4月7日(日)の礼拝は、詩篇第1篇1節〜6節から、「幸い。主のおきてを喜び楽しむ」と題してメッセージでした。

悪しき者

詩篇第1篇は「悪しき者」と「幸いな人」を対比します。『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである』。それは「悪しき者のはかりごとに歩み、罪びとの道に立ち、あざける者の座にすわる者は不幸である」ということです。「歩む」「立つ」「座る」という三段階があります。一段階。『はかりごと』とは「神様に向かない者の言葉」です。神様に向かない者の言葉に従って生活する。二段階。『罪びと』とは「神様という的を外した人」です。神様から的が外れた人生を積み上げる。第三段階。『あざける者の座』とは第一段階、第二段階を経た者が行き着く場所です。神様とは正反対の場所。すると『風の吹き去るもみがら』のようになる。中身がない。命がない。殻はいつまでも空。そして『悪しき者はさばきに耐えない。…正しい者のつどいに立つことができない。…悪しき者の道は滅びる』。吹けば飛び焼かれてしまう。「別に無くなるだけなら痛みなどない」と思われますか?「滅び」とは「存在を全く認知されなくなること」と言えましょうか。私たちは周囲から無視されるだけでも深い孤独、悲しみ、痛みを覚えます。「滅び」は、その痛みを覚えながら、私という存在が完全に失われていくのです。人間にとって最大の苦痛です。しかし神様は冷酷に無視されるわけではありません。悪しき者のことの始まりは、神様の言葉に聞いて従わないことでした。そして自ら「ないない尽くし」に身を置いたのです。

幸いな人

『このような人(幸いな人)は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う』。『主のおきて』とは神様の言葉です。聖書です。『よろこび』とは「たのしみ」とも訳せます。ですから幸いな人は、神様の言葉に聞いて従って、昼も夜も喜び楽しむ人です。牛は牧草をずっとにれ食んでいます。牧草が最高の食事。そして立派に育ちます。私たちにとって神様の言葉が最高の食事。肉体の食事も大切ですが、永遠の私を育てるためには神様の言葉が必要です。最初は慣れないかも知れません。神様の言葉ではない言葉に慣れているなら。しかし噛めば噛むほど味が出る。その美味しさがわかってきます。『このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える』。ここに成長の三段階があります。一段階。まずは「流れ(神様の言葉)」にしっかりと根ざすことです。「悪しき者」の三段階と真逆です。二段階。神様の言葉に養われ中身の詰まった実を結ぶ。命にあふれるのです。三段階。その実を周りに分かち合い、潤し、豊かにする。そしてついに『主は正しい者の道を知られる』に至ります。神様に聞いて従い続ける生活、神様にまっすぐ向かう人生を積み上げ、ついに神様とまみえるのです。今も神様は私たちを知っていて下さいます。私たちも神様を知っています。しかしその時には、完全にお互いを知るに至るのです。神様にこそ命がある。全てがある。喜び楽しむ永遠があるのです。

人生に歌を!人生に詩篇を!神様の言葉を!人によって幸いのイメージは違うかも知れません。しかし聖書は、神様に向いて、神様の言葉を喜び楽しむことが、幸いの根っこ(根本)だと言うのです。この根っこがなければ、どんな幸いも水泡に帰します。神様の言葉に聞いて従って、永遠まで続く人生を喜び楽しみたいと思います。

4月14日(日)は棕櫚の主日礼拝。ルカによる福音書第23章39節〜43節から、「閉じることのない救いの手」と題してメッセージです。


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