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ご先祖様の思い

「死んだらどこへ行くの?」と質問されたらどう答えますか?医学や脳科学の進歩と共に臨死体験が注目され研究が行われています。しかし蘇生することなく死んだ人の証言は聞けませんし、その先の検証はできません。では聖書はどう語っているか?死んだ人の生きている者への思いはどのようなものか?ということで、4月21日(日)のイースター召天者記念礼拝は、ルカによる福音書第16章19節〜31節から、「ご先祖様の思い」と題してメッセージでした。

死人の行く所「よみ」

イエス様の「金持ちとラザロ」のお話し。金持ちは贅沢に遊び暮らし、ラザロは貧しく全身おできができていて犬がなめていました。ラザロは金持ちの家の『玄関の前にすわり(寝かされ)』、金持ちの食卓のおこぼれに与れればと願うほどでした。二人はやがて死にます。金持ちは苦しみもだえています。ラザロはアブラハムのふところで慰められています。随分違う待遇ですが、アブラハムはこう言います。『今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている』。『今ここでは』。同じ『黄泉』。でも違う場所がある。また霊だけになっても苦しんだり心地良かったりという感覚がある。旧約聖書では神様がおられる「天」と私たちが生きる「地」、そして死んだ人が行く「よみ」という三つの場所が記されます。イエス様が来られる以前は、みな死ぬと「よみ」に降りました。旧約聖書の信仰者たちもです。彼ら自身そう告白している。だからアブラハムもいる。しかし同じ「よみ」でも違いがある。なぜ。

金持ちの思い「悔い改めてほしい」

金持ちが苦しみもだえるのは、生前、ラザロを冷たくあしらったから、同じような目に遭えということか?当時一般的に、金持ちの家の前には極貧の人たちや動けない人が運ばれてきて、施しを受けていました。この金持ちも施していたと思われます。しかし二人の生活は雲泥の差だった。しかしそれが「よみ」での苦しみの原因の全てではないようです。『金持ちが言った「いえいえ、アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう」』。これが死んで後悔しているご先祖様の思いです。「貧しい人に施し、良い行いを積みなさい」と言うよりも「生きている間に悔い改めてほしい」。苦しみの根本原因は悔い改めないこと。悔い改めとは神様に向き直ること。それはイエス様の救いを受け取ることから始まります。良い行いは後からついてくる。まずは、とにかく、悔い改めてほしい!

アブラハムの思い「聖書に聞きなさい」

金持ちはアブラハムに、自分の親族にラザロを遣わし警告してほしいと懇願します。しかしアブラハムは、「よみ」でさえそちらとこちらには一線が敷かれて行き来ができないのに、この世とあの世ではもっと無理!と言います。『もし彼らがモーセと預言者(聖書)とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしない』。これが死んで後悔のないご先祖様の思いです。「聖書に聞きなさい」。聖書に聞かない限り、どんな奇跡的なことがあっても人は信じないし悔い改めない。それはその通り。律法学者はイエス様に「お前が神の子と言うなら奇跡を見せろ。そうすれば信じてやる」と言いました。イエス様はそう言われたからではなく、愛から多くの奇跡をなされました。でも律法学者は信じない。イエス様を十字架につけた。でもイエス様は三日目によみがえった。奇跡中の奇跡。死人の中からよみがえった。でも彼らは金を使って「イエスの遺体は弟子が盗んだ」とデマを流した。では弟子たちは?そんな考えすらなかった。怯えて家に閉じこもっていた。誰も聖書の言葉なんかそっちのけだったのです。

私たちは何を基準に、根拠に、事実として生きているのか?いろんな研究や学説や歴史は塗り変わり、フェイクニュースやデマがあふれている。私たちは聖書に聞く。聖書に記された事実を信じる。イエス様は十字架で死んで、よみに降り、イエス様以前の神様の祝福を信じて死んだ人々を迎え、共に天に上られた。復活から40日後のこと。そして「天」は「天国」になった。天国への道が開かれた。では今なお「よみ」に降る人がいるのか?地獄は?「天国と地獄」と言うけれど?それはまたの機会に。私たちは「よみ」や「地獄」を心配する必要はありません。ご先祖様の思い、引いては神様の思いをしっかり受けとめることです。生きている間に悔い改め、イエス様を救い主と信じ、聖書に聞く生活をするなら、迷うことなく天国なのです。

4月28日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章40節〜45節から、「圧倒するきよさ」と題して、メッセージです。


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