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神の恵みの経済学

私たちにとって経済は重要です。個人投資の裾野が広がり、一国の経済危機があっという間に世界を駆け巡り、国家予算ほどのお金がネットで瞬時に動きます。経済規模は大規模になり、その巡り方も急激になっています。しかしそれ故にもろさやリスクも大きくなっているように見えます。さて。パウロはコリント人への第二の手紙第8章で「神の恵みの献げもの」について語りましたが、第9章では「神の恵みの経済学」とも呼べる内容を展開します。ということで、5月5日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第9章1節〜15節から、「神の恵みの経済学」と題してメッセージでした。

神の恵みが先行する

コリント教会はエルサレム教会の支援献金を始めました。それを知ったマケドニヤの諸教会も立ち上がりました。しかしコリント教会に問題発生。支援停止。しかしパウロの「涙の手紙」やテトスの訪問によってコリント教会は回復し始める。そこでテトスと諸教会の代表者2名を先発隊として派遣し、献金を準備させ、パウロとマケドニヤの諸教会を後発隊として受け取りに行く段取りを示しました。献金を催促しているように見える?5節の『贈り物』『心を込めて』は「祝福」という言葉です。心からの贈り物。それは相手を祝福するための祝福です。祝福とは神様から始まります。神様は私たちを祝福するために天地万物を創造されました。これが祝福の元手。神の恵みが大先行している。私の体だって元手です。コリント教会もパウロに小突かれて支援献金を始めたのではありません。エルサレム教会の祝福のため自ら始めました。私たちは先行する神様の恵みを分かち合う神の子たち教会です。神の恵みの経済は献げることで回り始めるのです。

神の恵みは必ず増える

6節の『豊かにまく者は、豊かに刈り取る』は「祝福をまく者は、祝福を刈り取る」と訳せます。5節に『しぶりながらではなく』は「貪欲」という言葉。「無理矢理人から奪う」「見返りを要求する」という意味があります。献げものは自発的な行為。今、相手が必要としていることへの行為であって、後の見返りを考えません。先行投資でもない。神様が天地万物を与えられたのも、人から奪うためでも、見返りを要求するためでもありません。祝福したいから、もっと豊かになってほしいから与えられたのです。私たちの献げる行為は『種まき』です。その行為は神様に『義』と見なされます。種は蒔けば蒔くほど豊かな収穫につながります。種はそのように造られている。相手がどうであれ、神様が私たちに豊かな収穫をくださいます。それをパウロは『義の実』と呼んでいます。私たちはスッカラカンになることはありません。与えてやまない神様は、献げる私たちを愛し、勘定以上のもの、想像以上のもの、お金や物では推し量れない豊かな義の実を増して下さるのです。

神の恵みは感謝となる

11節『神に感謝するに至る』12節『神に対する感謝によってますます豊かになる』15節『言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝する』。感謝の連続。15節の『感謝』は「恵み」という言葉です。恵みと感謝は表裏一体。神様からは恵み。受け取る私たちは感謝。労働の対価はある意味、恵みではないし、感謝する必要もありません。当然だから。では恵みとは?私たちに絶対必要なもの。でも私たちには造り出せないもの。私たちの努力では得られないもの。なおかつ無料(ただ)。自然の恵みがそうじゃないですか。救いの恵みがそうじゃないですか。神様を知らなくても大自然に向かって「有り難い」と手を合わせないですか?何かしら救いの本尊があると思って寺社仏閣を詣で「有り難い」と手を合わせないですか?人間的にはどうにも「有り難い」から感謝するのではないですか?その自然の恵みと明確な救いの本尊イエス様を与えて下さった神様に感謝すべきではないでしょうか。私たちの献げものは、この神様の豊かな恵みに感謝し、私たちに与えられて「有る」ものを具体的に分かち合う営みなのです。

『すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて』。口先だけではなく、実際に行動するからわかってくる、ということです。お金や物にとどまらない。私たちの労力や能力も活用するのです。神様は『すべての良いわざに富ませ』て下さいます。神様に感謝しつつ、互いにその恵みを分かち合いましょう。互いにも感謝しましょう。そこに恵みと喜びとホットな好循環が生まれるのです。

5月12日(日)の礼拝は、ルカによる福音書第15章11節〜32節から、「待っておられる神」と題してメッセージです。


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