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見たことのない出来事

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。イエス様の福音とは何からの勝利か?何をいただけるのか?どんな支配なのか?マルコによる福音書が少しずつ紐解きます。しかしまだ序の口。ようやく第2章に突入です。人々は『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と叫びました。どんな福音なんだ?ということで5月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章1節〜12節から、「見たことのない出来事」と題してメッセージでした。

イエス様というお方

まずはイエス様そのものが今まで見たことのない出来事です。『神の子』と表現されます。当時大人気だったバプテスマのヨハネは『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない』と告白しました。イエス様が洗礼を受けると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と天から声がありました。イエス様が安息日に汚れた霊につかれた人を解放されると、人々はイエス様を『権威ある新しい教だ』と驚きました。悪霊さえ『あなたは神の聖者です』と叫びました。『権威』『聖者』ともに神様に使われる言葉。言うこと成すこと人間をはるかに越えている。見た目は人間。中身は神様。それが今まで見たことのない存在。イエス様だったのです。

イエス様への信仰

今まで見たことのない存在であるイエス様に向かった信仰が、これまた今まで見たことのない出来事です。信仰が見える?イエス様は見ておられました。『中風の者』(脳梗塞や脳出血などによって全身不自由になった人)を『四人の者』が担架に乗せてイエス様の元へ来ました。しかしイエス様のいる家は立錐の余地がないほどの人。入れません。そこで外階段で屋根に上がり、屋根を剥いで中風の人をつりおろしました。みんなつりおろされてくるその人を見たでしょう。しかしイエス様はつりおろしている『彼らの信仰』を見られました。そこにはたくさんの人がひしめき合っていました。でもイエス様はその四人に、イエス様へ向かう信仰を見とめられたのです。

イエス様の罪のゆるし

イエス様は中風の人にいきなり『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われました。これも、いえこれが今まで見たことのない出来事です。「病よ去れ!癒されよ!」ではなかった。なんで?罪を赦す権威があるのは神だけだ!と『心の中で論じた』のは律法学者たち。イエス様は『自分の心ですぐ見ぬいて』『中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか』と切り返されます。ここでも見えない心を見ておられる。どっちがたやすい?昔は不治の病と言われたものでも、今は治療できるようになってきました。でも罪は今もってゆるすことはできない。できるのは罪が有るか無いかを判断するだけ。有る罪を無いことにはできない。ゆるす不変の根拠がない。では中風の人は犯罪を犯したから病気になったのか?ここで言う罪は「的外れ」と言われるアダム以来の罪。原罪とも言われる罪です。この罪があらゆる死と病と問題の根源。イエス様には見えていました。私たちの最優先課題がこの罪のゆるし、癒やしであることを。罪からの解放であることを。そしてイエス様なくして罪のゆるしはありえないのです。これぞ福音!では罪をゆるす根拠は?それはこれから語られていきます。

中風の人は病も癒されました。大変喜ばしいことです。人々もそれを見て『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と神様を賛美しました。でも見るべきは他にある。私たちはとかく、目の前の見える問題を最優先課題にしがちです。しかしそれは、忘れ去っている、見えていない出来事の積み重ねによるかも知れません。氷山の一角を何とかしようとしているかも知れません。しかし本当の問題は見えない所にある。イエス様はそこを見ておられる。優しいまなざしを向け、温かな光を当て、丁寧に取り扱おうとしておられるのです。

5月26日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第10章1節〜18節から、「主を誇る者」と題してメッセージです。


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