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罪人のお医者さん

お医者さんに行かれたことはあるでしょうか。一度もないという方、行くのがいやで一度もないという方、何かあればすぐ行きますという方、健康診断など病気の予防や生活習慣のチェックに活用しますという方、様々あるかと思います。イエス様は言われました。『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。なんだかイエス様がお医者さんに聞こえます。病人と罪人が重なって聞こえます。イエス様はどんなお医者さんなのか?ということで6月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章13節〜17節から、「罪人のお医者さん」と題してメッセージでした。

罪人を招かれるイエス様

収税所に取税人レビが座っていました。自分の給料を上乗せして(自由裁量)、同胞から取り立て、異邦人のローマ帝国に貢ぐ者。国賊。けがれた人。罪人。同胞からそう見なされ、好き好んで誰も近づかない。それはレビ自身が一番理解していた。彼もユダヤ人。律法も理解していた。賢くもあり、地位もあり、富もあった。でもどうしようもなかった。孤独な状況から抜け出せないでいた。そんなレビにイエス様は近づき、声をかけられた。『わたしに従ってきなさい』。そんな人は初めて。見たこともない出来事。一体何者?レビは思わずイエス様についていきました。

イエス様に従う罪人

レビは自分の家にイエス様を迎え入れて宴会を開きました。弟子たちも、イエス様の教えを聞いてついてきた人々も、そしてレビと同じ取税人や当時『罪人』と呼ばれたたくさんの人々を迎え入れました。レビの周りにはたくさんの人々があふれている。食卓を囲んで喜び楽しんでいる。今までの孤独な状況が一変している。取り立てる人から与えてもてなす人に変わっている。彼はこの時点で、取税人をやめたわけではありません。世間からすれば相変わらず罪人です。でも彼は変わった。なぜ?イエス様の招きに従い、イエス様を迎え入れたからです。

イエス様と距離を置く罪人

その様子を見たパリサイ派の律法学者が、イエス様の弟子たちに言います。『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』。彼らはイエス様の名前を決して言いません。いつも『彼は』です。パリサイ派は律法を字義通り厳守することを最優先課題にする人々。彼らは『罪人などと』自分は違うとし、距離を置き、イエス様にも近づきません。弟子ではなくイエス様が即答されます。それが『丈夫な人には医者はいらない…』でした。けがれに対してきよさ、罪に対して義。義人は罪がない。的が神様に当たっている。神様の義が内にあふれている。本物の義人なら罪人と一緒にいても問題はない。きよさがけがれを圧倒し、義が罪を圧倒するから。律法学者はなぜ罪人と距離を置いたのか?義を保つため?いえ義が彼らになかったから。彼らは自称義人。同じ罪人。本物の義人であるイエス様は彼らにも声をかけ招かれたのです。

聖書が言う罪は神様から的が外れた状態。神様に向いていない、聞いていない、従っていない状態。あらゆる死と病と問題の根本原因。原罪とも言われ、全ての人にある。イエス様に招かれていない人はいません。イエス様は人類のお医者さん。そしてあなたのお医者さん。イエス様の最優先課題はあなたの罪をゆるすこと。あなたの最深部に光を当て、メスを入れ、癒すこと。イエス様は優しいまなざしを向け、あなたの無自覚な罪ゆえの苦しみ、生きづらさを知り、深くあわれみ、触れて『わたしの心だ、きよくなれ』『子よ、あなたの罪はゆるされた』と癒したいのです。周りが何と言おうとも、レビはイエス様の招きに従い、イエス様を迎え入れたことで、罪のゆるしと癒やしが起こっていた。そして人生に変化が現れ始めていたのです。

6月23日(日)の礼拝は、詩篇第3篇1節〜8節から、「幸い。どんな中にも祈る」と題してメッセージです。


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