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一緒にいることが最高

私たちは目標に達するために、目的を果たすために努力します。小さな時からそう教えられてきましたし、そのための競争も盛んです。努力の結果得た、ということは正当化されますし、その努力も賞賛されます。イエス様がこの地上で活躍された当時のパリサイ人(律法学者)がそうでした。そしてイエス様の弟子(イエス様に従った人たち)は対照的でした。ということで、7月21日(日)のカフェスタイル礼拝は、マルコによる福音書第2章18節〜22節から、「一緒にいることが最高」という題でメッセージでした。

自分の努力で神に近づきたい人たち

当時、バプテスマのヨハネの弟子やパリサイ人は断食(週2日)していました。なぜ断食?罪を悔い改めるため。身を戒めきよめるため。そうやって神様の目にふさわしかろうとし近づこうとした。パリサイ人は断食し、律法を厳格に守ることで、彼らと他の人たちとを区別した。取税人や罪人と言われる人たちを見下し距離を置いた。しかし。断食するということは結局、自分に罪と汚れがあると認めていたということ。パリサイ人が罪のレッテルを貼った人たちと変わらない。それ以上ではない。ヨハネも『罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマ』は説きましたが彼が罪をゆるすことはできなかった。しかし人々は不思議でなりません。あの善良で真面目なヨハネの弟子やパリサイ人さえ断食しているのに、イエス様の弟子−取税人や罪人と言われる人が大勢従っていた−はなぜ断食しないのか?彼らこそ断食すべきでしょう!

とにかくイエス様と一緒にいる人たち

イエス様は結婚式をたとえに答えられます。当時の結婚式は麦の収穫時期の春か、ブドウの収穫時期の秋に行われ、1週間から2週間、親族、友人、偉い人、貧しい人、あらゆる人を招いて盛大に行われました。その花婿がイエス様。その友人が弟子たち。どんな人がいてもいい。第1章からの出来事を思い出しましょう。イエス様に従い一緒にいるならどうだったか?きよめがあり、罪のゆるしがあり、癒しがあった。喜び合い、もてなし合い、豊かな交わりがあった。その人は解放され、自由になり、輝いていた。イエス様と一緒にいることが、きよめであり、罪のゆるしであり、癒し。そして交わりの回復。人はイエス様と一緒にいる時、本当の自分でいられる。イエス様と一緒にいる時、最高。イエス様と一緒にいないということは、断食している人と差して違いはないのです。では一緒にいるだけで何もしなくて大丈夫なのか?

そこから本質の体験が始まる

続いてイエス様は新しい布ぎれと古い着物、新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえを語られます。新しい布は新しい着物に仕立てるべき。そうすれば古い着物を損なうことはない。新しいぶどう酒は発酵が終わっていない。ガスを発生し膨張する。硬くて古い皮袋は耐えられない。新しい皮袋は柔らかい。新しい布や新しいぶどう酒はイエス様。新しい着物や新しい皮袋はイエス様に従う人たち。かたや古い着物や皮袋は律法(熟成したぶどう酒)によってできあがった当時の社会。パリサイ人もその中。新しいものも古いものも本質は同じ(布やぶどう酒や皮袋)。別物ではない。違うのは新しいか古いか。柔らかいか硬いかです。イエス様が来られ、古いものと新しいものが明らかになろうとしていた。古いものから新しいものに代わろうとしていた。イエス様は律法と全く別物を実現しに来られたのではなく、その本質を全うし回復するために来られたのです。カチカチだったパリサイ人は理解できなかった。別物に感じた。でもイエス様の弟子はとにかくイエス様に従い、一緒にいることで、『神の子イエス・キリストの福音のはじめ(支配)』を体験していくことができたのです。

あなたは古い?新しい?硬い?柔らかい?心配無用!みんな新しく柔らかくなる。問題はイエス様と一緒にいるかいないか。イエス様はあなたの罪や汚れや病で逃げ出すようなお方じゃありません。逆!近づき、招き、共にいて下さる。私たちは神様に近づくために努力して変わるよりも、イエス様と一緒にいて変えられて行動できる。イエス様が語られた言葉、イエス様を語る聖書に、丁寧に耳を傾け、その心を知り、従いましょう。そこに解放と自由がある。イエス様の福音、支配、神の国の体験があるのです。

7月28日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第12章1節〜10節から、「弱さに現れる主の力」と題してメッセージです。


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