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幸い。祈りで備えられる朝

皆さんは朝起きてすぐ何をしておられますか?早起きが苦にならない人は、散歩や軽い運動、作業などされるかも知れません。朝が苦手という人は、起きたらすぐに、朝食もそこそこに学校や職場に出かけられるかも知れません。さて、ダビデは神様に夜祈りましたが、朝にも祈りました。それが詩篇第5篇。『朝ごとに』という言葉が2回使われています。朝の祈りの詩。ということで8月11日(日)の礼拝は、詩篇第5篇1節〜12節から、「幸い。祈りで備えられる朝」と題してメッセージでした。

第一声は神様に 1-3節

詩篇第5篇は1-3節が主に寄り頼む者、4-6節が悪しき者、7-8節が主に寄り頼む者、9-10節が悪しき者、11-12節が主に寄り頼む者と、「主に寄り頼む者」と「悪しき者」が交互に出てきます。「主に寄り頼む者」を中心に朝の祈りを三つのかたまりで見ていきます。その最初が「第一声は神様に」ということです。ダビデは朝、黙祷していたわけではありません。『わたしの言葉』『わたしの嘆き』『わたしの叫び声』『わたしの声』を聞いて下さい!と祈りました。言葉に出せば堂々巡りしない。思いがあちこち飛ぶこともない。ダビデは夜、神様に感情を吐露し、ある意味スッキリして眠りました。しかしそれで翌日、悪しき者や問題がなくるわけではありません。確かに悪しき者や問題は解決されていきますが、この世界に生きている限り、新たな悪しき者や問題が現れます。朝、何の備えもなくそんな世界に身を投じていくよりは、まず神様に向き、神様の中に己を見出し、問題の風呂敷を広げ、今日1日を神様と相談することは、有益であり、幸いなことなのです。

神様の導きを求める 7-8節

ダビデは『あなた(神様)の家』で祈り、それができなければ『聖なる宮』に向かって祈りました。いずれも一般的に神殿を指しますが、当時神殿はありませんでした。それに類する場所と建物はあったようです。息子のクーデーターで都落ちしたときも朝祈っていたことでしょう。ダビデは神様の『豊かないつくしみ(真実)』に信頼します。それに対して悪しき者の『口には真実がない』。悪しき者は調子のいいことを言い、その口(言葉)に従う人は、なめらかな舌に乗って、飲み込まれ、のど(墓)から心=腹(滅び)へ落ち込んでしまう。しかし神様の言われたことは必ず成る。ダビデはその真実に寄り頼み、神様の義によって守り、進むべき道をまっすぐに示して下さい、と祈りました。誰が見てもわかりやすい「悪しき者」はそんなに多くはありません。とても言葉巧みです。だからこそ知らず知らずのうちに振りまわされてしまう。それによって、どこに義があるのか見失ったり、進むべき道を誤ったりすることがないよう、まず神様に向き、神様の中に自分の立ち位置と進むべき道を確認することは、有益であり、幸いなことなのです。

喜びと祝福を願いつつ 11-12節

ダビデは今までの詩篇でも民の救いと祝福を祈りました。ここでもそれは変わりません。ここに「守る」という言葉が2回出てきます。『み名を愛する者があなたによって喜びを得るように、彼らをお守り下さい』の「守る」は防護柵で囲う様子をいう言葉です。『あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます』の「守る」は王様が王冠を頭に戴くときの様子をいう言葉です。防護柵で囲まれ守られる。さらにもっと身近に硬い盾で守られる。さらに単に守られるだけではなく、王様の頭のように祝福と恵みの冠で囲まれる!私たちがこの世界で生きている限り、悪しき者も問題もなくなりません。しかしそれにもまして、それを覆って余りある神様の祝福と恵みがある。詩篇第5篇は3つの主に寄り頼む者の祈りに、2つの悪しき者が挟み込まれています。主に寄り頼む者の祈りに始まって神様の祝福に終わる。悪で終わらない。最終的にあらゆるものを神様の祝福と恵みで満たしていただくために、喜びに至るために、朝の祈りで始めることは、私たちにとって大きな益であり、大きな幸いなのです。

朝が弱いのに無理矢理早く起きて熱烈早天祈祷会をせよ!と言いたいのではありません。あなたにできる朝の祈りがあるはずです。

8月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章23節〜28節から、「安息日の主」と題してメッセージです。


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