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真理に従えば力がある

パウロは迷走するコリント教会を見捨てず、忍耐強く向き合い、回復と成長を願いました。それがパウロににじみ出る神の愛。しかし。パウロは最後に来て気になることを記します。『もし悟らなければ、あなたがたはにせものとして見捨てられる』『わたしたちが特に祈るのは、完全に良くなってくれることである』『全き者となりなさい』。え?見捨てられるの?もしくは完璧を要求されているの?パウロの真意はいかに?ということで、9月8日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第13章1節〜10節から、「真理に従えば力がある」と題してメッセージでした。

人のことを言う前に 1-2節

パウロは三度目の訪問を計画します。一度目は教会を生み出すため。二度目は問題処理のため。しかしこの時、問題がこじれました。それでもパウロは助言と忠告を残しました。その後「涙の手紙」を、さらにこの第2の手紙をテトスに託し訪問させます。『すべての事がらは、ふたりか三人の証言によって確定する』とは当時の律法です。パウロたちの再三の訪問と忠告は、多くの人が聞いて見て読んでいます。にもかかわらず変化がなければ、逆に悪化しているなら、処罰を実行するまで。決して脅しでも厳しくもありません。丁寧な手順を踏んでいる。コリント教会や偽教師は、パウロを悪く言うことで自分を正しいとしました。パウロが本物の使徒か証拠を要求しました。しかしパウロの生き様はキリストの使徒であることを圧倒的に証明していました。キリストの弱さ・十字架が、キリストの強さ・力であるように、パウロは弱さの中にありながら宣教の力を発揮し続けたのです。「自分に優しく他人に厳しい」のではなく、まず自分にキリストの弱さと力があるか、見つめ直したいものです。

あなた自身を吟味し 5-6節

コリント教会はどうなのか?『にせものとして見捨てられる(不適格者とされる)』『見捨てられた者(不適格者)ではない』とパウロ。どっちやねん!大事なのは『イエス・キリストがあなたがたのうちにおられること』を悟る(認識する)か悟らない(認識しない)か。知人が一つ屋根の下にいても、同じバスに乗っていても、知人と認識しなければ赤の他人。何も始まらない。キリストはいつも私たちと共におられる。いるかいないか?ではなくいつもおられる。それを認識しないで「私はダメだ」「こんな私にキリストはおられない」「もう愛されていない」と嘆いていないか?それはキリストそっちのけで、自らを『見捨てられた者』と決め込んでいるだけ。パウロは優しく熱く『イエス・キリストがあなたがたのうちにおられる』『見捨てられていない』それを認識せよ!と語りかけるのです。「自分のことは棚に上げて他人のことを言う」のではなく、まず自分を棚から下ろして、うちにおられるキリストを認めなおしたいものです。

あなた自身が真理に従いなさい 7-8節

「祈る!あなたがたがどんな悪をも行わないように。あなたがたに良い行いをしてもらいたいため」「祈る!あなたがたが完全に良くなってくれることを」とパウロ。「完全に良くなる」とか「全き者となる」(11節)とか、結局パウロの要求は高い?赤ちゃんはどうやって歩けるようになる?赤ちゃんは自分を見るのではなく、歩く人(いつも共にいてくれる人)をひたすら見て真似て歩けるようになっていく。私が適格者か?良い行いができているか?完全か?自分を見た瞬間、不適格者になり、良い行いができなくなり、完全でなくなります。自分は弱い。その認識は大事。弱いからこそ、できないからこそ、見るべきもの真似すべきものがある。それが『真理』。真理とは共におられるキリスト。私がキリストを認識する時私は適格者でいられる。私がキリストに従う時それが良い行いなのです(従うとは行動ですから)。キリストを認識し、キリストに従う時、私たちは弱くとも強く、私たちは完全なのです。

パウロは、三度目の訪問でコリント教会に厳しい処罰を下さすことになっても、『倒すためではなく高めるため』と記します。パウロはコリント教会がどう転んでも回復と成長を願っている。愛している。そしてその助言はシンプル。『真理に従えば力がある』。まずは自分が、いつも自分が、共におられるキリストを認め、キリストに従う。教会の建て上げは自分から始まるのです。

9月15日(日)は年長者祝福カフェスタイル礼拝。ヨハネによる福音書第3章1節〜15節から、「老いても新しく」と題してメッセージです。


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