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幸い。神にさばきを求める祈り

人から根も葉もないことを言われ、批難され、罪を着せられると大変な苦痛や怒りを感じます。根も葉もないことだと明らかになっても、それで全て解決し、相手と仲良くなれるかというとそうとも限りません。言う方、言われる方、双方、後々になっても、気持ちの良いものではないのではないでしょうか。これが国のリーダーならどうでしょう。何を言っても、何をやっても、批難されることがあります。誹謗中傷があります。足もとを掬おうと狙う者もあります。ダビデもそんな状況にありました。ということで、10月13日(日)の礼拝は、詩篇第7篇1節〜17節から、「幸い。神にさばきを求める祈り」と題してメッセージでした。

私を攻撃する存在はある 見出し・1-2節

この歌が詠まれたきっかけは『ベニヤミンびとクシ』という人物にあるようです。この人物は聖書の中でここにだけ登場しますが、ダビデを攻撃(口撃)する存在だったようです。ダビデは自分が王になりたくてなったのではありません。神様がそう望まれ、召され、王になったのです。でもそんなダビデを攻撃する人があった。ダビデはすぐさま弁明し、にらみ返し、反撃に出たかというとそうではありません。神様に訴えた。「神様!あなたが勝利して私を解放し、私から奪われたものを取り返して下さい!」と。今の世の中は訴訟社会。自分の権利を守るために必要です。しかし、自分だけ有利であればそれで良い、となっていないか。また見えない所から、自分とは全く関係ない人を攻撃するネット社会になっていないか。そんな攻撃する人ばかりに心を奪われると、自分の立ち位置を見失ってしまう。まずはもとい。神様に訴える。寄り頼む。それはダビデも私も変わらないのです。

義なるさばきびと神様がおられる 6、11節

ダビデは潔い人。クシが口撃するように自分に非があるかも知れない。であれば敵に捕まっても、踏みにじられても構わないと告白します。しかし実際は、批難されたようなことはなかったようです。だからといってすぐさまにらみ返し、怒りの反撃に出たかというとそうではありません。神様に訴えた。「神様の怒りをもって、敵の憤りに立ち上がり、正しくさばいて下さい!」と。神様はいつも怒っておられるわけではないし、逆にいつもヘラヘラ笑って何でも赦しておられるわけでもない。神様は日ごとに、不当なことで苦しみ、悲しみ、怒る人に共感される『義なるさばきびと』です。人間は感情の生き物であると共に理性の生き物です。感情も理性も神様が与えて下さったもの。私たち人間のさばき(ものごとの判断)は、この感情と理性のバランスの中でなされます。しかし時として強すぎる感情が判断を狂わせることがある。強すぎる理性が共感させなくしてしまうこともある。だからもとい。神様に感情をぶつけ、さばきを訴える。それはダビデも私も変わらないのです。

私は心と思いを神様に向ける 8-10節

ダビデは「相手をさばいて下さい!」と訴える前に、いえいつも、神様の前にも人の前にもオープンであろうと努める人でした。自分が正しい時は正しい、悪い時は悪い、うれしい時は嬉しい、腹が立つ時は腹が立つと素直に自分を現す人。裏表なく全部見える人。間違いや問題があれば隠さず、開き直らず、素直に認め、軌道修正する人。それが『心の直き者』。昔も今も『心の直き者』が求められているのではないか。見栄えのする立場や立派な人格よりも、神様の前にも人の前にも『心の直き者』。ダビデは神様にさばきを求めると共に、悪しき者は自ら掘った穴に落ちていくとも記します。神様と人の前に、自分の間違いや問題を隠して人を攻撃しているなら、その隠し持っているものがその人自身を毒するのです。他人を貶めるために穴を掘ったり道を曲げるなら、自分が軌道修正しない限り、自分がその道を歩むことになるのです。だからもとい。私たちは、『心(理性)と思い(感情)とを調べられ』る神様に『直き者』であり続ける。それはダビデも私も変わらないのです。

さばきは私たちの権利を守るために必要です。そのためにさばきびとが健全でなければなりません。訴える側も訴えられる側もその心と思いをオープンにしなければなりません。でなければさばきを曲げることになります。しかし人間のさばきは時として曲がることがあります。しかし神様のさばきはどこからどう見ても明らかで鮮やか。曲がることはありません。神様のさばきを受けられることは幸いなことなのではないでしょうか。

10月20日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章1節〜6節から、「同じ礼拝なのに」と題してメッセージです。


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