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私たちはイエス様の弟子

3年ほど前、教会の倉庫を整理しているとホーア先生のネガフィルムのアルバムが出てきました。約90年前から70年前の300点ほどのネガフィルム。そこには八重先生をはじめとする若い働き人が何人も写っています。ホーア先生は1人ではなく、そういった若者たちと共に東京、大阪、京都で福音を宣べ伝えました。八重先生たちはホーア先生の弟子に見えます。しかし年齢や世代に差はあれど、イエス様の同じ弟子。そしてお二人の信仰と働きを受け継いでいる私たちもイエス様の弟子なのです。ということで、1月12日(日)のホーア師&八重師記念礼拝は、マルコによる福音書第3章13-19節から、「私たちはイエス様の弟子」と題してメッセージでした。イエス様の弟子とは、

イエス様に応答する人たちです 13-14節

イエス様の働きとうわさは広大な地域に広がりました。病気や汚れを癒やしてほしい人々が、悪霊を追い出してほしい人々が殺到するようになりました。寝食の暇もないほどです。イエス様も人々も押しつぶされないよう、イエス様が一時小舟に避難しなければならないほどでした。それでもイエス様は来る者を拒まず癒し続けられました。これ以上どうするの?物理的に手が回らない!そこで今回のお話しとなります。イエス様は『みこころにかなった者たち』を呼び寄せられ、その招きに応答した人たちの中から「12人」(12弟子)を選ばれました。ですから弟子は12人とは限りません。後にわかることですが女性もありました。ここで肝心なのは、これらの人々が、イエス様の招きに自発的に応答し、山にいるイエス様の『みもとにきた』ということです。何の強制もありません。この礼拝に集まった私たちも同じです。ここに、主の前に、自発的に集まっているのです。

イエス様と共にいる人たちです 14-15節

イエス様が『みこころにかなった者たち』を招かれた目的は、『自分のそばに置くため』、『宣教につかわ』すため、『悪霊を追い出す権威を持たせるため』でした。イエス様の懐に離れずに置いて、イエス様の日常を見させ、触れさせ、体験させるため。そして『神の子イエス・キリストの福音』の目撃者として、体験者として、伝令として派遣するため。さらには神の『権威』を授け、イエス様と同じわざを行わせるためでした。すごくない?口や生活でイエス様を伝えるだけではなく、イエス様と同じ権威あるわざも行うのです。ここで肝心なのは、イエス様と共にい続けるということです。でも口で言うのも難しい?権威あるわざなんて無理?そもそも「みこころにかなっている」とは思えない?そもそも「みこころにかな」っているとはどういうことか?

イエス様のみこころにかなった人たちです 16-19節

ここに12人の名前があります。他の聖書箇所や伝承などから、この人々の人となりがわかりますが、どうですか?生まれ育ちも良く、高学歴で、社会的地位もあり、ジェントルでスマートでパーフェクトな人たちか?意外に兄弟や友人や親戚関係が多かったりします。肉体労働者、血の気の多い人、体制側の人、反体制側の人、罪人扱いされている人、裏切る人。実にバラエティ。裏切ったのはイスカリオテのユダだけではありません。後にみんなイエス様を裏切りました。この人たちのどこが「みこころにかなっている」のか?「みこころにかなう」とは「その存在を喜ぶ」という言葉です。イエス様はペテロという存在を、取税人マタイという存在を、熱心党のシモンという存在を、イスカリオテのユダという存在を、喜んで招かれた。彼らの過去がどうであろうと、未来がどうであろうと、今この時、一人一人の存在を喜んで招かれたのです。

私たちも同じ。誰が裏切らないと断言できますか?誰がジェントルでスマートでパーフェクトでいられますか?それが入門基準なら誰も弟子になれない。一癖も二癖もある。罪も汚れも弱さも失敗も裏切る可能性もある。そんな私たち。でもイエス様は愛し喜び招いておられる。「私の元へおいで。私によく聞き、私をよく見て、やってみるんだ。君は私が造った。だから私に学ぶ時、君は君でいられる。そして私の与えた力を発揮できる」。ホーア先生と八重先生は他の若い働き人と共に、イエス様の弟子として、協力し手分けしてイエス様の福音を伝えました。私たちもイエス様の同じ弟子。ここに集まっていることがその証し。みんなで協力し手分けし賜物を用いて、イエス様のわざを広げていくのです。

1月19日(日)の礼拝は、詩篇第9篇1-20節から、「幸い。シンクロされる神様」と題してメッセージです。


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