カテゴリー

幸い。主に寄り頼む

この世界や私たちの身近な生活に「科学的」な光が当てられるようになりました。「廃れてしまった伝統的な生活習慣に大切な意味や効果があることがわかった」とか「みんなが良かれと思ってやっていることに意味はなかった」とか。「科学的」と言われるだけで信じてしまう。そして「昨日の非常識は今日の常識」「今日の常識は明日の非常識」と言われるほど目まぐるしく変化します。それは「科学的」な面だけではありません。教科書だって塗り替えられることはよくあることです。私たちはそんな心許ない常識に振りまわされていないか?そんな問いかけをしているのが今日の聖書。ということで、2月9日(日)の礼拝は、詩篇第11篇1-7節から、「幸い。主に寄り頼む」と題してメッセージでした。

誰に寄り頼むか 1-3節

この詩はダビデの危機的状況を背景にしているようです。先代サウル王には悩まされました。サウルは神様に選ばれた器でしたが、やがて心は神様から遠く離れました。ダビデの命を狙い、刺客を遣わし、人々に密告を促しました。しかしダビデはサウルに忍耐強く仕えようとします。そんなダビデを見かねて助言する人々があったようです。1-3節を口語訳的にわかりやすく言うと「ダビデというよりどころ、指導者を失ったら、正しい人々はどうすればいい?だから今は逃げるんだ」。しかしこれはこうも訳せます。「悪しき者によって社会秩序や世の常識がひっくり返っているのに、あなたに何ができる?逃げるしかないよ」。私たちはどうか?命狙われる危機的状況はないかもしれません。でも世の中の常識に流されていないか?「聖書にはこう書いてあるが世の中はそれを否定している」「聖書にはそれは罪だと書いてあるがみんな普通にやっている」「聖書には天地創造や奇跡が記されるが、非科学的なお伽噺の世界だと相手にされない」。自分がクリスチャンだと言えば何を言われるかわからない。返答できない。信仰のことは大切に胸にしまって適当に周りに合わせておこう。

私たちは主に寄り頼む 4-6節

ダビデは言います。『わたしは主により頼む』。人々はダビデこそ「基」「よりどころ」だと思っていた。しかしダビデは主こそ「基」「よりどころ」だと告白します。ここに『人の子ら』とありますが「アダム(土)」という言葉です。今までの「エノス(弱い)」とは別の言葉。主に向かず聞かず従わなくなったアダムの末裔。世の秩序・常識で覆われた人の子たち。神様はそんな人々を『みそなわし』ておられる。これは「見る」「行う」の二つの意味を持つ言葉。神様は何を見て何をされるのか?6節はこう訳せます。『主は悪しき者の上に鳥網を下ろす。火と硫黄と風は彼らの受けるべき杯だ』(口語訳以外)。ダビデを心配する人々は「あなたが鳥のように狩人に狙われているから山へ逃げよ」と言いました。しかしダビデは「私をつけ狙う者こそ、神様に鳥のように捕らえられ、相応の報いを受けさばかれる」と言うのです。私たちは、神様や聖書や信仰を嘲笑う人々を恐れる必要はありません。世の中が私たちに牙をむいても、それはやがて消え去る「アダム(土)の子ら」に過ぎない。私たちはダビデと同じく、全てを見ておられ、最終的かつ決定的にさばかれる主を「基」「よりどころ」とするのです。

主を仰ぎ見るに至る 7節

『主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう』。2節にも『直き者』とあります。主にまっすぐな者です。悪しき者に命狙われもしますが、この『直き者』こそ『主のみ顔を仰ぎ見る』に至ります。主の顔を見るとは救いを意味します。『仰ぎ見る』は『みそなわし』と同じ言葉です。私たちが主にまっすぐであり続けるなら、神様は私たちを見て、最終的かつ決定的に救われるのです。キリスト教会はこの2千年間、その時代の常識や科学的・歴史的見解に忖度し、振りまわされてきました。もしくはそれらのものとは縁のない宗教の枠に自身を押し込めようとしてきました。神様も聖書も信仰もその下に。しかし私たちは主が「基」「よりどころ」。主に『直き者』まっすぐな者でありたい。主に丁寧に向いて聞いて従う者でありたい。そこにゆるぎない秩序や常識がある。土にかえって終わりではなく、永遠にまっすぐ主のみ顔を仰ぐのです。その時、私たちも主と共に、全てを「みそなわす」ことができる。これ以上の幸いはありません。

2月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章20-30節から、「あなたは何に支配されているか」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved