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幸い。主の言葉で確かになる

世の中には言葉が洪水のようにあふれています。その割にと言いましょうか、だからと言いましょうか、その言葉に対する責任が伴わないことがあるのではないでしょうか。言葉の発信者がわからず、真実か嘘か判断がつきにくい。人を傷つけ、死に至らせることもある。その言葉にどんな責任が伴うか、影響があるか考慮せず、吐き出し、忘れ去っている。今日の詩篇はまさにそんな「言葉」がテーマです。ということで2月23日(日)の礼拝は、詩篇第12篇1-8節から、「幸い。主の言葉で確かになる」と題してメッセージでした。

人の言葉に迷わされるな 3-4節

ダビデは先代のサウル王に『忠信な者』でした。しかし妬まれ、命狙われ、人々に密告され、ダビデを助ける者は殺され、ダビデの側近にも裏切る者が出ました。『神を敬う』はずのイスラエルにダビデの安住の地はなく、誰も信用できず、気が狂いそうになりました。ダビデを追い込んだのはそんな人の言葉。『へつらい』とは「なめらかな」、『大きなことを語る舌』は「傲慢」を意味します。言葉が上手い。人を惹きつける。それはあくまで手段。その心は『ふたごころ』。裏がある。傲慢が隠れている。『主人』とは神様を「主」と呼ぶ時に使う言葉。「誰が俺たちの主なんだ?神なんだ?そんなものはいない。俺たちは言いたいように言い、やりたいようにやるだけだ」と、そういう人々が豪語する。ダビデは主に叫びます。『卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています』。昔も今も変わらないのではないでしょうか。最初、みんな驚喜歓迎し、讃え、ついていく。でも段々、使役、虐げ、搾取が広がっていく。反対する者、おかしいと声を上げる者が消されていく。歓喜が恐怖に変わり果てる。最後にはその組織全体が崩壊する。それは国家とは限りません。身近な関係の中で、様々な形で繰り返されている。アダムとエバに話しかけたへびが、巧妙に事実と嘘をすり替えて、彼らから大切なものを奪い去ったことを思い出すべきではないでしょうか。

主の言葉で確かになれ 1,5-6節

『主よ、お助けください』。ダビデは開口一番叫びます。この『主』は先ほどの「主人」ではなく、神様の名前を表す言葉です。ダビデの主は神様。そして主の言葉を求めました。ダビデはなお叫びます。『「困窮者たちへの乱暴のゆえに、貧者たちの呻きのゆえに、いま、わたしは立ち上がる」と、ヤハウェが言って下さい。「わたしが救いに入れる、彼の証拠人として」と』(岩波訳)。面白いと思いません?「神様!こんな風に言って下さい!」と要求している。幼い子が「お母さん!僕を好きだと言ってちょうだい!」とお願いしているようなもの。母親は子に言われなくても子を愛している。でも子は要求する。それはわがままではありません。当然の要求。そして母親が「大好きよ」と言ってギュッと抱きしめる。その愛は子に伝わり、子は安心する。母親の思いと子の要求が、そこで見える形になるのです。神様とダビデ、神様と私たちも同じ。私が祈る。神様が応える。宣言、実行、形になる。神様の言葉は一度発せられると、たとえ火の中、水の中、全くブレずに、どんな時代や国や思想をも貫き凌駕し輝くのです。まさに『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のよう』。やがて世は火によって終わりを迎えます。しかし主の言葉は火によってますます輝く。信頼する者を固く保ち、永遠の安全地帯まで持ち運ぶ!弱く虐げられやすい私たちが確かにあり続けるのです。

幸い。主の言葉で確かになる。私も半世紀、主の数々の言葉で保たれてきました。しかし「こういう時にはこういう聖書の言葉」というようなお決まりの言葉はありません。聖書はそんな美味しいとこどりの格言集ではありません。神様に祈りつつ聖書に聞き続ける中で、その時々にふさわしい語りかけがあるのです。世の中の言葉も大切です。でもそれだけで答えを急がない。丁寧に聞きつつ振りまわされない。まずは、そして常に、主の言葉に立ち帰りましょう。主の言葉は埋もれない。なくならない。確かにあってますます輝きます。私たちを永遠に確かにするのは主の言葉です。

3月1日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章1-10節から、「自由の福音の権威」と題してメッセージです。


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