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自由の福音の後退

パウロが生み出したガラテヤの諸教会が、『違った福音』を語る『ある種の人々』に急激に傾き、自由の福音・キリストの恵みの内・福音の真理から急激に落ちて行きました。パウロは「どないしたんや!」と、息せき切って、玄関に飛び込んでくるような勢いで手紙を書き始めました。しかしここにきて、もっと深刻な問題があったことが記されます。世界最初の教会、エルサレム教会の『重だった人たち』・イエス様の直弟子・教会の柱である大御所ペテロが後退してしまった!ガラテヤの諸教会は生まれたてで福音を十分理解していなかったかも知れない。でもペテロは違う。「どないしたんや!」と叫びたくなります。ということで、3月8日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章11-14節から、「自由の福音の後退」と題してメッセージでした。

自由の福音に与っても 11-13節前半

ペテロはユダヤ教社会に育ったユダヤ人。そしてイエス様の弟子。模範的な所もあり、大失敗もあり。でもイエス様昇天後、聖霊様が降り、迫害をものともせず大胆に福音を語り出した。そんな時夢を見る。清くないとされる食材が天からおりてきて食べなさいと言う。ペテロは拒みます。すると『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』という声。そんな夢の後、異邦人コルネリオ一家の救いに立ち会います。すると『割礼を重んじる者たち』から異邦人と食を共にしたと批難されます。ペテロは先の夢とコルネリオの救いに触れ、神様が異邦人にも同じように救いをもたらされることを彼らに理解させました。ペテロもパウロと同じく、神様の啓示によって働き、神様の権威によって臆せず語り、理解を得ています。でも今回。アンテオケで異邦人クリスチャンと『食を共にして』いたのに『ヤコブのもとから』『割礼の者ども』が来たら、『割礼の者ども』に合わせて異邦人クリスチャンから離れてしまった。彼らに振り向いた瞬間、『恐れ』が生じ、ペテロが生まれ育ち馴染みに馴染んだものの見方・考え方・行動にあっという間に引きずり込まれた。かつて、荒れ狂う湖の上をイエス様が舟に向かって歩いて来られた時、ペテロは大胆にもイエス様めがけて湖の上を歩き出しました。でも『風を見た』瞬間『恐ろしくなり』沈み始めた。イエス様を見ている時は沈まなかった。目をそらした瞬間沈み始めた。それと同じ。私たちにもないか?ちょっとしたことが引き金になり、無意識のうちに、あっという間に、過去の自分に戻ってしまった、過去の過ちを繰り返してしまった、悪いクセが出てしまった、人に指摘されるまで気付かなかった、なんてことが。

自由の福音に与り続けるために 11,13節後半

『恐れ』は伝染する。異邦人宣教の雄バルナバまで引きずり込まれた。パウロはみんなの前でペテロを「なじり」ます。この言葉は「抵抗する」という言葉です。まさに自由を守る抵抗。パウロはペテロたちの行動を『偽善の行為』と記します。「本心を偽った行動」「神の前に仮面芝居している」という言葉。他の何者かに支配され、操り人形のようになっている。そこに自由はもはやない。クリスチャンになりたての異邦人がペテロの振る舞いを見ると当然困惑します。「今まで私らと一緒に食事してくれていたのに急に知らん顔?異邦人あかんの?私らもユダヤ式にした方がいいの?それともこういう人がいる場合はこう、ああいう人がいる場合はああ、と切り替えた方がいい?」。コロコロ変わる福音?誰の福音?それって『違った福音』ではないか?パウロは言います。『福音の真理に従ってまっすぐ歩いていない』。言い換えれば「福音の真理に従ってまっすぐ歩きなさい」。難しい?いえ。最もシンプルな原点。イエス様に向いて聞いて従うことです。ペテロはパウロに言われて、それが痛いほど良くわかったと思うのです。なぜなら彼は、そのことを何度も経験してきたから。自分かわいさのため何度も失敗した。それでもイエス様はその度に手を差し伸べられ、ペテロは何度もその手をつかみ直し、立ち直り、前進してきたから。信仰の長い短いに関係なく、私たちも同じ弱さがある。同じく恐れやすい。だからこそ、福音の真理に常に向き直り、従い直し、まっすぐ歩き直すのです。

自由の福音の後退。あのペテロでさえ後退した。ならば私たちにおいて何をか言わんやです。でも恐れるな。自由の福音を前進させるためにこの手紙はある。いよいよ「福音の真理」の詳細に入っていきます。

3月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章31-35節から、「神様の家族」と題してメッセージです。


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