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イエス様の家族

今ほど家族とは何かを問われている時代はないと思います。かつては、「夫は、妻は、親は、子どもは、家族は『こうあるべきだ』」というものがあったのではないでしょうか。しかし今はそれが崩壊。なんでもありの模索状態ではないでしょうか。そしていろんな問題が露わになってきました。しかし問題ばかりではありません。危機が好機。ピンチがチャンス。家族を見つめ直す良い機会。ということで、3月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章31-35節から、「イエス様の家族」と題してメッセージでした。

人の家族 31-32節

イエス様のうわさはあちらこちらに広がり、多くの人々が「癒してもらいたい」「お話を聞きたい」とイエス様の元に殺到するようになりました。イエス様と弟子たちは休む暇がありません。イエス様の母マリヤと兄弟・姉妹たちが、イエス様が『気が狂った』と思って『取押さえに』やって来ました。父ヨセフの存在はありません。ヨセフは早くに死んだのではないかと考えられます。権威あるお父ちゃんがいればすぐさま家に連れ帰ることができる?この時イエス様は30歳ぐらいです。首根っこつかまれて連れ帰られるような年齢でもありません。『気が狂った』とは「正常な位置から外れる」ということ。ならば正常な位置に戻してやればいい。しかし彼らは『取押さえに』(支配しに)来た。「自分が正常だと思う範囲」に引き戻すために。私たちにもないか?私たちそれぞれには、本来あるべき立ち位置、最もふさわしい立ち位置、その人が本当にその人でいられる立ち位置がある。それは神様が用意しておられる。しかし本人も家族も知らない。認めない。そしてそれぞれ自分の「こうあるべき」と思う範囲に押し込め、支配しようとすることがないでしょうか。

神の家族 33-35節

イエス様は『家』におられました。イエス様がカペナウムに戻られると使う家、福音宣教のベースハウスだったようです。そこには人々があふれていました。年齢も、性別も、身分も、職業も違う人々。罪人と言われた人も、汚れていると言われた人も、そうでない人もみんな一緒に座っている。それって当時ありえないことです。垣根がなくなっている。一つ屋根の下にみんないる。ただいるだけじゃない。『神のみこころ』を行おうとしている。それまで彼らがどんな人だったか、何をしてきたかは問われません。今、そしてこれから『神のみこころ』を行う人々。イエス様はそんな彼らを『わたしの母、わたしの兄弟』と呼ばれたのです。ここに全ての家族の原点があります。アダムとエバから始まる家族を創造されたのは神様です。その子孫である私たちも皆神様に創造され、それぞれに神様から目的、役割、立ち位置が与えられている。それは他人を見ていてもわからない。神様の私への『みこころ』を知らなければならない。そのためにイエス様がおられる。イエス様は神の子。神様と私たちをとりつぐ立ち位置。だからイエス様の招きに応じ、イエス様に聞き、イエス様に従う。それが『神のみこころ』を行う家族なのです。

神様の用意された立ち位置なんて堅苦しいと思いますか?私はかつてそう思い込んでいました。清く、正しく、孤高の世の旅人としてのイメージ。家族も世も仮の住まい。聖か俗かでいえば俗。だから疎外感があった。教会も奉仕をがんばる所。でも病を得てイエス様にゼロから向き直ることになりました。イエス様に「私に来てまず休むんだ。力を抜いてくつろぐんだ。私と共に、君自身を喜び楽しんでごらん。私が与えた家族を喜び楽しんでごらん」と言われているようでした。神様の用意された立ち位置は、私の想像する喜び以上、満足以上、豊かさ以上。家族も教会もイエス様を中心に、誰もがホッとする場所、元気になる場所、そこで得たものを出て行って分かち合いたくなる場所。それがイエス様の『家』、『神のみこころ』を行う家族の営み。それは血のつながった家族か、そうでないかは関係ないのです(結局母マリヤも弟たちもイエス様の弟子になっていきます。それは後の話し)。

3月22日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章15-16節から、「自由の福音の真理〜信仰による」と題してメッセージです。


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