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自由の福音の真理〜信仰による

私たちは自由を願います。でも「あなたは自由です」と言われた途端、何をしていいかわからないということがないか。長い休みがあっても、ゲームばかり?動画ばかり?「ああ暇だ。何にもすることがない」なんて言ってない?ある程度の決まり事、ノルマ、義務、マニュアルがあればどうでしょう。それさえやっていれば楽?考えなくてもいい?周りからも認められる?安心?でもそれって本当に自由?このことについて、パウロは自由の福音の真理を語り始めます。とうことで、3月22日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章15-16節から、「自由の福音の真理〜信仰による」と題してメッセージでした。

神様に義とされる

パウロは福音の真理について、義と信仰から始めます。『わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが』と記しますが、選民思想で異邦人を差別しているのではありません。ユダヤ人は元々神様も律法も知っています。『律法の行い』とは、割礼・食事に関する規定・年間の祭事・その他生活全般を指します。律法は元々、神様によって、エジプトの奴隷状態から救出されたイスラエル人に与えられたもの。彼らにとって選ばれし・救われし・自由にせられし者の誇り・証し・勲章のようなものでした。一方ガラテヤ教会の人々は神様も律法も知りませんでした。律法が言う罪を罪とも思わず生活していました。そういう意味でパウロは『(私は)異邦人のような罪人ではない』と言ったのです。しかしガラテヤ教会の人々も自由の福音によって自由な者となりました。じゃあこれから何をしたらいい?となった時、『ある種の人々』『にせ兄弟ら』『割礼の者ども』がやって来て「ほら!こんなにやるべきことがあるよ」と『律法の行い』を提示したのです。「これはわかりやすい」とガラテヤ教会は飛びついた!しかし律法は年月を経て、ユダヤ人が意識するしないに関わらず「これを行わないと神の選びから外れる。義とされない」というノルマ・義務・マニュアルになり果てていました。義には二種類あります。一つは自らの行いで証明する義。もう一つは裁判官が宣言する義。『律法の行い』は前者に使えそうですが、元々神様に選ばれてエジプトから救出されたユダヤ人の生活であって、義を得るためのものではありません。ユダヤ人も私たちにも必要なのは後者です。私たちの行いに関係なく、とにかく神様に宣言していただく義。それが聖書の言う義。私たちの救いに必要な義なのです。

イエス様の信仰による

だからパウロは『わたしたちもキリスト・イエスを信じた』と告白するのです。そして『キリストを信じる信仰によって義とされる』のです。直訳は「キリストの信仰によって義とされる」。日本語訳だとイエス様を信じる私の信仰で義とされる、と理解できます。しかしイエス様ご自身の信仰で私たちは義とされる。イエス様の信仰?この『信仰』は「真実」という言葉でもある。「神の真実」という時に使われます。神様の真実にイエス様が信頼されたことで、イエス様の真実が現されました。それが十字架の救いです。そのイエス様の真実に私が信頼することで、私も神様に受け入れられる。神様とイエス様、イエス様と私、私と神様が真実と信頼で一つになっている。神様の真実が信仰を通して私まで貫いている。それが義とされるということ。十字架こそ神様の真実の現れ。イエス様がその十字架につけられるということは、神様への完全信頼の証し。神の親子の真実と完全信頼の合体によって私たちへの義が現れた!だから私たちもイエス様への完全信頼、100%の信頼だけが必要なのです。イエス様への信頼ある所に常に神様の義があるのです。いかなるノルマ・義務・マニュアルも入り込む余地はないのです。それは救われてからも変わらないのです。

「信仰がもっと強くないといけない」「信仰がまだまだ弱い」と、信仰さえ行いのように扱っていませんか?信仰は本来、最も力の抜けた状態。親の懐や背に子が身を委ねるようなもの。私たちも神様の懐にくつろぎ、イエス様の十字架に身を任せるだけでいい。神の親子の真実と信頼は底なしです。私たちはこの神の親子に創造された者。だから神様は私たちを信頼しておられる。命がけで。「あなたは私が造った。だからあなたを信頼している。私を、イエスの十字架を信頼してくれると。そこに私の義・救い・自由がある」。

3月29日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章36-46節から、「支え合う祈り」と題してメッセージです。


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