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ゆるしの十字架

4月5日(日)は棕櫚の主日礼拝。そして受難週の始まり。イエス様が十字架上で発せられた最初の言葉から、イエス様の十字架の意味を味わいたいと思います。ということで、ルカによる福音書第23章32-38節から「ゆるしの十字架」と題してメッセージでした。

ゆるせない人間たちの十字架

『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。『彼ら』とは誰か?まずはピラト。人を十字架につける権限を持っていました。政治家、軍人、教養ある立派な人。ユダヤ人の要請でイエス様を裁判しますが無罪を認めます。しかし民衆の暴動を恐れ、イエス様を十字架につけることをゆるしました。次に祭司や律法学者。政治的、宗教的リーダー。民衆の教師、模範、良心のような存在。しかしイエス様を妬み、ピラトに圧力をかけ、民衆を扇動し、イエス様を十字架につけることに成功しました。そして民衆。棕櫚の主日の由来は、イエス様がロバに乗ってエルサレムへ入られる時、彼らが棕櫚の葉を手に「ダビデの子に、ホサナ!主の御名によってきたる者に祝福あれ!」と、歓喜して迎えたことにあります。しかし数日後、拳を振り上げ「十字架につけよ!十字架につけよ!」と叫んでいました。最後に弟子たち。ペテロを筆頭に『主よ、わたしは獄にまでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です』と豪語していました。でも数時間後、イエス様を見捨ててちりぢりに逃げ失せていました。人々はイエス様に暴力を振り、つばを吐きかけ、ののしり、「神の子なら自分を救え!奇跡を起こして十字架からおりて見せろ!」と嘲りました。えげつないですか?悪い奴らですか?ゆるしがたいですか?私は彼らよりマシですか?彼らこそ十字架刑だ!と思いませんか?彼らは普通の人。私たちと同じ。いえ私たちも彼らと同じ。理由をつけ、正義を掲げ、憎しみや妬みや怒りをぶつけるため、実際にはやらなくても心の中で、あの人この人を磔にしていないか?イエス様を憎んだ人々同様、「お前を絶対にゆるさない」という十字架に、互いを磔にしあっていないか?それはつまり、「救いようがない」ことをし合っている、ということです。イエス様はそれを『彼らは何をしているのかわからずにいるのです』と言われたのです。

ゆるすイエス様の十字架

イエス様こそ彼らをゆるす必要はなかった。イエス様に罪はありません。十字架につけた『彼ら』がイエス様以上に良いことをしていたわけではありません。勝手な言いがかり、不正な裁判、不当な扇動によって、当時最も残酷な十字架にまつりあげた。世界の創造者である神の子を、被造物である人間が殺害した。世界最大の冤罪。人類最大の悪行。イエス様はとっとと十字架からおりることもできた。でもしなかった。『父よ、彼らをおゆるしください』。『彼ら』に代わって、『彼ら』への罰を、この十字架で私が受けます!人類最大の悪行、どうにもゆるせない、救いようのない十字架を、神の親子は、人類に圧倒的なゆるしと救いをもたらす十字架へと変えて下さったのです。このゆるしの十字架は人を選びません。どんな人をもゆるします。「そんな!虫が良すぎる!ゆるされてまた同じ罪を繰り返しても、またまたゆるすのか?」と思えます。このゆるしの十字架は、神の国の入り口。私たち一人一人、自分の罪を認め、このゆるしの十字架をくぐるなら、神の国に迎えられ、「神のかたち」回復のリハビリが始まる。さらに「神の子」としての成長が始まる。ついには復活と新しい天地における生活にまで至るのです。「更生」という言葉があります。その人だけを何とかしようとしている限り、更生は実現しません。それは塀の中で実現できるものではなく、社会が受け入れてから真に実現されていくものです。社会に癒しやゆるしや共に成長する力が求められている。更生には共生の力が必要なのです。一人一人にも、社会にも、ゆるしの十字架の圧倒的な力、神の国から始まる再生と成長が必要なのではないでしょうか。

「あいつをゆるさない」「私はゆるされない」と思っている間は、心の拳や肩に力が入りっぱなし。人間的な力ではゆるせない私、ゆるされない私だからこそ、圧倒的なゆるしの十字架が必要なのです。この十字架に覆っていただく時、握りしめていた拳や怒っていた肩の力が抜け、他に使えるようになる。「何をしているのかわからない」から「本当は何をすべきか」がわかってくるのです。

4月12日(日)はイースター召天者記念礼拝。ピリピ人への手紙第3章20-21節から、「復活の準備はできていますか」と題してメッセージです。


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