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神の国の奥義 聞く耳のある者は聞くがよい

たとえ話は難しい話しをわかりやすく説明するものではないでしょうか。しかしイエス様のたとえ話はわかりやすいようでわかりにくい。イエス様がこう言われます。『あなたがたは神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬えで語られる。それは「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない」ためである』。わからない人にはわからない。わかる人にはわかる。その違いは『神の奥義』が授けられているか否かです。奥義って何?「中に入ればわかる世界」です。日本には茶道、華道、武道など、道が付く世界があります。様々な一門がある。その世界は外から眺めていてもわからない。一門をくぐり、子弟となり、その世界に身を投ずることでわかってくる。身についてくる。その道を究められる。それが奥義を授けられた人。では神の国の奥義を授けられた人とは?ということで、4月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章1-20節から、「神の国の奥義 聞く耳のある者は聞くがよい』という題でメッセージです。

何がまかれるのか?

今回のイエス様のたとえ話は種まき。種とは何か?イエス様は御言だ、と言われます。種には命が宿っています。しかしまかずにおくならそのままです。何の変化もなし。しかし適切な時に適切な場所にまくなら芽を出し根を生やし、一粒からたくさんの実をつける。イエス様の住まれた当時の地域では、家畜にくびきを付けて土を耕せば、種を空中に投げるようにしてまき散らしていました。とにかくまいてまいてまきまくった。種は御言。イエス様の言葉。聖書。日本では誰もが手にすることができます。でも他の本とは違う。命が宿っている。豊かな実を結ぶ力を秘めている。しかし他の本と並んでいるだけでは、他の本と一緒に積まれているだけでは、埃をかぶっているだけでは、何の変化もない。御言はまかれなければならないのです。

どこにまかれるのか?

イエス様は種である御言が落ちた先は人である、と言われます。当時の種まきはとにかく大雑把。風に吹かれて畑以外の所にも落ちました。固く踏みしめられた『道ばた』。たとえば「宗教お断り。西洋の一神教など必要ない」。土が薄くのっている『石地』。たとえば「御言って素敵です」。でもいろんな問題が起きると「御利益なんてないじゃないか!」。『いばらの中』。土自体は悪くありません。でも蒔かれた種以外が先にはびこってしまう。たとえば「御言も大事。でも今はこっちが優先事項。先にあれもこれもしたい」。『良い地』は種のための地。深く柔らかく種を受け入れる地。たとえば「まずは御言に聞きます。心に留めます。それからあれもこれもしましょう」。それぞれ別の人のように思うかもしれません。でも私自身が時として道ばたや石地や茨の中になっていないか?自己点検したいものです。

私たちにできることは何か?

とにかく御言に聞きなさい、とイエス様は言われます。ペテロやヨハネたちは『わたしに従ってきなさい』とのイエス様の御言に従いました。彼らは神の国の門をくぐったのです。たとえ話をすぐには理解できませんでしたが、イエス様に尋ねることはできました。師弟関係だからこそです。そしてたとえの解説を引き出した。奥義が一つ明らかになった。私たちは聖書を読んで、もっと疑問を持つべきです。疑問に思うことを恐れない。答えがすぐにわからないことも恐れない。難しいからといって諦めない。もっと御言に向き合い、もっと神様に尋ね、もっと互いに分かち合う。そのことによって私たちは耕され、柔らかにされ、御言が深く入り、成長するのです。他の誰でもない、まず私が御言に向き合う。私から変化が始まるのです。そして分かち合うことで、30倍、60倍、100倍と、神の国の世界を知るに至るのです。

私たちは世の中の耳寄りな情報を聞き逃しはしません。検索してでも調べます。神の国の奥義を授けられた人とは御言に聞く人です。御言は裏切らない。必ず答えてくれる。終生御言に聞き続け、問い続け、養われ続けましょう。神の国の奥義を満喫し、大いに分かち合い、楽しむために。

4月26日(日)の礼拝は、詩篇第13篇1-6節から、「幸い。主に向かって叫ぶ」と題してメッセージです。


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