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神の国の奥義 聞くことがらに注意しなさい

私たちは生涯学び続けられます。学校、職場、引退後の生活に至るまで。今は情報の時代。古今東西あまたの知識を得られます。しかしそれを自分のものとするには体験が必要ではないか。座学と実践をくり返す中で理解を深め、基礎から応用へ発展させることができます。イエス様も弟子たちにそういう学ばせ方をしておられます。イエス様はまず『わたしについてきなさい』とペテロやヨハネたちを招きました。彼らもまずついていきました。神の国塾に入門です。イエス様と共に過ごし、話を聞き、みわざを見て来ました。『神の子イエス・キリストの福音』を少しずつ学んできました。そして『聞く耳のある者は聞くがよい』とたとえによる集中講義が始まった。今回はその続き。ということで、5月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章21-25節から、「神の国の奥義 聞くことがらに注意しなさい」という題でメッセージです。

あかりのたとえ 21-23節

ここでもイエス様は『聞く耳のある者は聞くがよい』と言われます。細かく言うと「聞く耳を持ち続ける者は、聴き続けなさい」です。今回のたとえの前半は『あかり』。当時の家は石造り・土作りで窓も小さく日中もそんなに明るくありません。あかりも種からとった油に芯を浸して灯すものでそんなに明るくはありません。しかしあかりがあるのとないのとでは大違い。さらに『ます』(量る器)や『寝台』が登場します。物を量る時、ますの下にあかりは置きません。ますの中が見えません。寝台の下にあかりを置くようなこともしません。寝台が燃えてエライことになるだけです。あかりは上に置いて、ますの中を照らし、寝台や部屋の様子がわかるようにします。ますは役に立つし、安全に部屋を動くことができます。さて。これはたとえ。照明の仕方を教えているのではありません。前回のたとえの中心の『種』は御言でした。今回のたとえの中心の『あかり』も御言です。種からとったあかり。旧約聖書にも『みことばは私の足のともしび私の道の光です』とあります。御言に聞き続け、問い続け、向き合い続ける私の心、私の生き方を照らす。さらには神の国の『秘密』という奥義の世界を照らすのです。私たちは御言を、私の心や生活を照らす場所に、いつも置く必要があるのではないでしょうか。

はかりのたとえ 24-25節

ここでイエス様は『聞くことがらに注意しなさい』と言われます。これも細かく言うと「聞き続けていることを、聞き分け続けなさい」です。「聞き分けのいい子やなぁ」と言ったりします。聞いたことを忘れず、理解して、行動に移している子です。さらにここには『はかり』が登場します。『あかり』の次は『はかり』。では『はかり』は御言?いえ。御言を聞いて聞き分ける私たちが『はかり』です。前回の種まきのたとえでは、御言に柔らかく聞く者は30倍、60倍、100倍の実を結ぶと言われました。今回は私たちが御言をどれだけ受けとめるかが問われています。「あの人は度量がある」「あの人は器が広い」と言ったりします。柔らかく、幅広く、懐深く、肯定的に受けとめてくれるイメージがある。相手を信頼してくれているイメージがある。そんな人にはますます人望が集まるのではないでしょうか。聖書を読まない、聖書に聞かないというのは、はかりに何ものっていない状態です。また聖書を読んでもいろんな反応があります。歴史物、非科学的奇跡物語、道徳的格言集…としては良いが、全部を神の言葉とするのはちょっと…。御言の価値や意味を取捨選択している状態。御言を切り刻んでその命を失わせている状態。はかりに一部だけ、断片的に、偏ってのっている。それは持っていると思っても持っていないのと同じ。取り上げられているも同じ状態なのです。今は聖書全体がわからなくても、全部が神の言葉だと信頼し、記される過去・現在・未来をまるまる受けとめるのです。『あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ』は、「あなたの量り続けるそのはかりで、自分にも量り与え続けられる」です。ドーン!と与えられた御言(聖書)を信頼して受けとめ、日々聞き続け、問い続け、向き合い続ける。神様はそんな私たちを喜んでなお信頼し、神の国の豊かな恵みを、さらにドドーン!と『なお増し加え』て下さるのです。

御言と奥義は相関関係にあります。そしてどちらも最初に全部受け取る(授けられる)ものなのです。そして御言に導かれ、日々神の国の豊かさを堪能していくのです。私たちは神様と御言にもっと信頼すべきです。信頼すればするほど神様の気前の良さがわかってきます。

5月24日(日)の礼拝は、歴代志下第5章1-14節から、「臨在の賛美」と題してメッセージです。


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