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私たちの助け主

5月31日(日)はペンテコステ礼拝。聖霊降臨と教会の誕生を記念する時。私が赴任してからこれまで、ペンテコステ礼拝において、「聖霊の力」「バプテスマの恵み」「聖霊の実」についてメッセージしてきました。振り返ってみると、聖霊様ご自身について語っていませんでした。今回は、聖霊様がどのようなお方か、私たちとの関係について、ヨハネによる福音書第14章1-31節から、知ることといたしましょう。

父と御子を見せる助け主 16-17節

イエス様は最後の晩餐で、イエス様を裏切る者がいること、イエス様がもうすぐいなくなることを告げられます。弟子たちは不安になります。そこで『別の助け主(もう一人の助け主)』が来ると語られます。「もう一人の」ということは、まずイエス様が助け主だということです。そして同じ働きをする方がもう一人。『助け主』は「傍らにいる方」「寄り添う方」「力強い味方」「弁護人」などの意味があります。イエス様は『いつまでもあなたがたと共におらせて下さる』『それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる』と念の入れようです。何が何でも必ず共におられるお方。それが聖霊様。イエス様は『真理の御霊』とも呼ばれます。イエス様は『わたしは道であり、真理であり、命である』と言われました。つまり聖霊様はイエス様(真理)の御霊。『別の助け主』だけど一つ。ややこしい?イエス様はこうも言われます。『わたしを見た者は、父を見たのである』。ややこしい?つまり。聖霊様はイエス様を見せ、イエス様は父なる神様を見せる。父、御子、御霊は別々かつ一つ。聖霊様が私たちにおられるなら、三位一体の神様全体を知ることができるのです。

もっと大きいわざをするための助け主 12節

弟子たちは今まで、目に見え手で触れられるイエス様とずっと一緒でした。イエス様一人で御言を教え、みわざを行っておられました。イエス様の元に来る人々は増え続け、イエス様は寝る暇も食べる暇もありませんでした。イエス様は一人の人間という物理的限界を抱えておられました。しかしイエス様がいなくなることで、見えなくなることで、父の御元に行くことで、イエス様を信じる者がイエス様と同じわざをする、いや『もっと大きいわざをする』と言われます。実際、教会は時を超え、国を超え、拡大してきました。クリスチャン(「キリストのもの」というあだ名)一人一人のわざは知れています。限界があります。しかし時を超え、国を超えていく、私たち全ての「キリストのもののわざ」はどれほど大きいことでしょうか。それはイエス様が父の御元に行かれると共に、父から聖霊様が私たちにつかわされたからです。聖霊様が時を超え、国を超え、私たちと共にいて下さるからです。物理的な体を持たない聖霊様が共にいて下さるからこそなせる『大きいわざ』なのです。

祈り従うための助け主 26節

イエス様が『わたしはあなたがを捨てて孤児とはしない』『わたしは平安をあなたがたに残していく』と言われるように、聖霊様はトコトン私たちと共におられます。しかし一つ屋根の同居人でも交わりがなければいないも同じ。イエス様は『わたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう』と繰り返し言われます。好き勝手な願いもか?続いてこう言われます。『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守る』『わたしを愛するならば、わたしの言葉を守る…そして父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住む…あなたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である』。『愛する』とは『守る』こと。手前勝手ではない相互の交わりがここにある。祈りと御言による交わりで父、御子、御霊、私が一つになる。私も神の子らしく養われ、私も願う御心にかなったわざを行える。それが『大きいわざ』の本質。祈りを支え、御言の理解を助けて下さるのが聖霊様。『助け主、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせ』て下さるのです。

聖霊様は見えないと共に、奥ゆかしいお方にも思えます。でも共におられる。私が祈る時、御言に従う時、大いに活躍して下さいます。私たち一人一人の営みは小さいかも知れない。しかしそれをたぐり寄せ、つなぎ合わせ、織りなし『大きいわざ』にされるのは聖霊様。私たちはこの聖霊様に信頼し、日々祈り、御言に聞き、立ち上がってまいりましょう。

6月7日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章17-21節から、「自由の福音の真理−恵みによる」と題してメッセージです。


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