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神の国の奥義〜人がする分、神がされる分

イエス様はペテロやヨハネたちを招き、御言を語り、わざを見せ、座学実践を繰り返されました。働きは大きくなり、一人での働きが限界に近づき、あらためて弟子たちを招き、12人を選ばれました。そして集中講義(たとえ話)が始まりました(実際そうだったというよりも、マルコの編集がそうなっている)。わかりやすい材料を使っているけれど、何を言っているのかわかりづらいのがイエス様のたとえ。それは神の奥義を語っているから。奥義とは外から見ているだけではわからない。中に入ってこそわかる世界。弟子たちはイエス様の弟子になることで、その解き明かしを聞くことができました。イエス様は『聞く耳のある者は聞きなさい』『聞くことがらに注意しなさい』と語られます。今回はその続き。6月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章26-34節から、「神の国の奥義〜人がする分、神がされる分」と題してメッセージでした。

人がする分 26、29節

『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。…実がいると、すぐにかまを入れる。刈り入れ時がきたからである』。再び種まきのたとえ。私たちも学校で、何かしらの種をまいて収穫までを経験したことがないでしょうか。しかし、種をまいてから片時もそこを離れず、ずっとへばりついていたでしょうか。時々水をやり、雑草を抜き、肥料をやり、普段の生活をします。いつの間にか芽が出て、葉が増え、つぼみができ、花を咲かせ、種や実がついて収穫です。イエス様の種まきから収穫までのシンプルなたとえから、人間がしていることを抜き出すと、種をまくことと収穫することの二つです。これはたとえ。種まきは『御言』を人にまくことでした。まずは自分に。私が豊かになる。同じように御言は多くの人を豊かにします。だから。とにかく。私たちがする分とは御言をまくこと。そうすれば収穫することもできるのです。

神がされる分 27-28節

『夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる』。私たちも手入れをしますが、種がどんな環境で、どんな時期に、どんな形でアクションを起こすかまではコントロールできません。太陽活動や気候変動が大きく影響するからです。プロの方でも「こればっかりはお天道様頼みです」なんて言われます。これはたとえ。今度は神様がされる分。どこ?「いつの間にか」『おのずと』という部分。種は神様が創造したもの。御言は神様が発せられたもの。そしてこの世界が存在し運行している。だから御言がどこでどんな風に実を結ぶかは、私たちの小さな営みからは、なかなか見渡すことができないしわからない。でも、私たちが御言をまけば、神様は必ず収穫に至らせて下さる、ということなのです。

合わせて神の国は大きくなる 30-32節

ここで『からし種』のたとえです。諸説ありますが、からし種は0.5〜1mm程度。しかし育つと2〜3mの灌木になるそうです。イエス様が言いたいのは、神の国は最初はめっちゃ小さいけれど、やがてとんでもなく大きくなる、ということです。イエス様は最初一人で御言を語り、わざをなしておられました。しかしやがて12人をはじめとする弟子たちが御言を伝え、様々な働きを展開しました。それは時代を超え、国境を越え、今やアジアの東端、日本にまで及んでいるのではないですか。「どうせ神様が何もかもされるから、どうせ御心だけがなるから、私は何もしなくていい」というのではありません。私たちのする分がある。すぐには結果が見えないかも知れない。私たちが思い描く結果じゃないかも知れない。でも神様は私たちがする分を大いに用いて、私たちが見渡せないほどの、大きく豊かな結実と収穫をもたらし続けて下さるのです。

『イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた』。私たちの年齢や経験も、信仰歴も、御言の理解も、種まきの仕方も様々。とはいえ、奥義の外にいるわけではない。神の国に入った弟子たちです。12弟子も実に様々だった。でも協力して福音を伝えました。私たちも同じです。

6月28日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章6-14節から、「自由の福音の真理〜徹底的にプレゼント」と題してメッセージです。


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