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自由の福音の真理〜交わりによる

私たちはガラテヤ人への手紙から、自由の福音の真理とは、「信仰による」「神の恵みによる」「神様のプレゼントを受け取るに尽きる」ということを繰り返し学びました。しかし、そう言われれば言われるほど、真面目で律儀な人は不安や疑問を覚えないか。クリスチャンらしい証しを立てるために義務やノルマやマニュアルがほしくなる人、するべきことが用意されていると安心する人もあるのではないか。そこでまず、パウロは「律法の行い」から語り始めます。ということで、8月2日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章15-24節から、「自由の福音の真理〜交わりによる」と題してメッセージです。

主人の遺言 15-18節

まずパウロは「自由人の主人の遺言」に触れます。遺言は昔も今も『いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない』ものです。「私の財産は、この息子に全て贈与する」と約束されれば、その息子がどんな息子であれ、その息子に受けとる気さえあれば受けとれる。人間の遺言はかくも強力。神様の約束はもっと強力。パウロは神様のアブラハムへの約束を引き合いに出します。神様の約束は、アブラハムとその『子孫』とになされました。『子孫』という言葉は単数形で複数をも意味する集合名詞。アブラハムと信仰を同じくする「私たち」も神様の約束に与れますが、その窓口はイエス様お1人です。『もし(あなたがたが)キリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである』。イエス様(単数)を信じる者は、その他大勢(複数)として相続のおこぼれに与るのではなく、イエス様(単数)を信じる私(単数)も、歴とした主人の子・神の子・自由の子として、神様の全ての相続に与るのです。神様の約束は遺言レベルに強力。イエス様の十字架による死によって確定されたから。もう誰にも変えられない。私たちの小さく至らない「律法の行い」が取って代わることは決してない。何と大きく強力で気前の良い「神の恵み」でしょうか。

奴隷の養育 19-24節

次にパウロは「律法の役割」に触れます。律法はアブラハムから430年後にできました。なぜできたか?『違反を促すため』です。違反しないように律法ができたのではなく、違反を助長するためにできたのか?『促す』とは「示す」という言葉。律法の役割は、何が罪か、何が間違っているか、何が自由でないかを示すこと。パウロはこの律法を『わたしたちをキリストに連れて行く養育掛』だと言います。『養育掛』とは当時、奴隷の仕事でした。奴隷(召使い的イメージ)は、主人の子どもの養育・教育も任されていました。しかし律法は、私たちが「できない」ということを教えるのです。完璧なんて無理。違反するのが関の山。自分の義を立てることは不可能。律法というガチガチの囲いの中で、少しでも動こうものなら、あっちにゴツン「罪〜」、こっちにゴツン「罪〜」と響いてくる。痛い思いをするばかり。ストレスだらけ。疲れるだけ。どうしていいかわからない。律法はそこに行き着くためにある。律法の役割はそこまで。あとは?律法ではなく主人の元へ!イエス様の元へ!マニュアルをこなすことではなく、イエス様を窓口とする三位一体の神様との、温かな交わりの中で、自由とは何かを学び、体験し、身につけていくのです。

律法は悪いものではありません。その役割を私たちが履き違えているだけ。何が罪か間違いか不自由かを知るためにある。私たちが罪や間違いや不自由から自力では抜け出せないことを知るためにある。それがわかれば十分です。それで断罪されて終わりではない。後はイエス様に向く。聞く。交わる。律法で罪がわかり、イエス様で自由がわかるのです。

8月9日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章23節-第4章7節から、「キリストというユニフォーム」と題してメッセージです。


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