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永遠の命は特別なのか

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9月8日(木)、教会員の兄弟が天に召されました。土曜日から日曜日にかけて葬儀があり、ご家族の慰めを祈り、御国の希望を分かち合いました。11日(日)の礼拝は創世記第5章1節〜32節から、「永遠の命は特別なのか」と題してメッセージ。奇しくも死と永遠の命について思い巡らす時となりました。

ある人は「誕生とは死に向かうスタートだ」「死ぬために生まれてくる」と言います。確かに死は現実です。しかし人は生きたいと望み、「永遠の命」という言葉を使ってやみません。では聖書は死や永遠の命をどのようにとらえているのでしょうか。

累々たる死の現実

創世記第5章にはアダムからセツ、そしてノアにつながる系図が記されています。彼らの寿命は今に比べてはるかに長寿です。天地創造から洪水までの地球環境には「上の水」が存在していました。今とは環境が違います。有害な宇宙線や放射線、環境破壊や遺伝子損傷もなく今の十倍以上生きられたのでしょう。一番長生きしたのはメトセラ(ノアの祖父)969歳。しかしその息子レメク(ノアの父)は777歳。他の人々の年齢に比べて不自然に短い。アダムから単純計算すると(これには諸説ありますが)メトセラとレメクは洪水の直前、もしくは洪水に巻き込まれて死んだ可能性があります。それはさておき。たとえ、どんなに長生きしても、人々は次々と死んでいきました。聖書はその死の繰り返しを淡々と記します。

永遠に続く命の現実

しかしたった一つ例外がありました。それがエノク(メトセラの父)。エノクの生きた時代、最初の人アダムは生きていました(これも単純計算すれば)。エノクはアダムのエデンでの生活や神様と歩んだ様子を直接聞きました。経験したことのない世界を記した文書を読むのとは違って、生きた語り部から聞けばリアルです。アダムの息子アベルの死は伝え聞いているがアダムはまだ生きている。神様は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福してくださったはず。「主の名を呼ぶ」だけでなく、もっとリアルに神様と歩みたい!そう願ったエノクは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」。こうも訳せます。「エノクは神とともに生活し、神に受け入れられたので、(死を見ないで地上から)いなくなった」。この例外のような記事も、聖書は淡々と記します。

神とともに歩む現実を選び取る

聖書全体を読んでいると気づくことがあります。それは永遠の命や御国のこと、神様の祝福の記事よりも、死や呪いや悲惨といった記事の方が具体的で分量も多いということです。実は神様にとって死は異常なことであり、死にまつわる罪や呪いや悲惨は特筆すべき事なのです。逆に永遠の命や御国のこと、神様の祝福はごく普通のこと、当たり前のことなのであっさりしているのです。私たちが書く日記はどうですか?新聞やニュースははどうですか?死と永遠の命。どちらも現実。しかし死なないことが本来の現実。エノクは永遠の命の現実を選び取りました。メトセラもレメクもエノクに倣うことができたかもしれない。ノアの箱舟に乗れたかもしれない。しかしそれをしなかったのです。

死の現実と永遠の命の現実。それは私たちの前にも置かれています。私たちは「神のかたち」として創造されているのですから永遠の命を選び取るべきです。エノクが具体的に神様とどのように生活し、受け入れられたかはわかりません。しかし私たちが永遠の命を選び取る方法は明確です。エノクは「主の名」を呼び求めた人々の一人ですが、私たちにとって「主」とはイエス・キリストです。イエス様こそ私たちの永遠の命であり、よみがえりであり、父なる神様に至る道です。主イエス様を信じ、主の名によって祈り、神様の言葉である聖書に養われ従うことが、神とともに歩み、神に受け入れられる生活です。一度死を経験しますがそれはイエス様も同じ。そして私たちも復活します。さらに新しい天と地で永遠に住まうのです。創世記からヨハネの黙示録まで、どんなに死や悲惨があろうとも、命と祝福がまっすぐ貫いています。神様はどこまでも永遠の命指向、祝福指向です。この神様に信頼して歩み続けましょう。

9月18日(日)は年長者祝福礼拝。イザヤ書第43章1節〜7節、第46章4節から、「私を持ち運んでくださる神」と題してメッセージです。


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