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正気になった人

「マインドコントロール」と聞いてどんなことを想像されるでしょうか。「洗脳」「自分が自分でなくなってしまう」「怖い!かかわらないほうがいい」というような、良くないイメージが浮かんでくるでしょうか。「マインドコントロール」とは「心を支配する、治める、管理する」ということです。マインドコントロール全てが悪いわけではありません。肝心なのは、「何によって」支配し、治め、管理しているかです。私たちは、本当に、自分が自分を支配し、治め、管理できているか?ということで、8月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章1-20節から、「正気になった人」と題してメッセージです。

レギオンに支配された人 2-7節

イエス様は、異邦人が住む地、異教の地、ゲラサ人の地に行かれました。そこに『悪霊につかれた』男性登場。この悪霊は『けがれた霊』『レギオン』とも記されます。レギオンは、6千人規模のローマの軍団を指す言葉。この男性は、それほど多くの悪霊に支配され、服も着ず、墓場に住み、山で叫び、足かせや鎖をされても破壊し、誰も押さえつけられず、自分の体を傷つけまくっていました。そして叫びます。『いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください』。苦しんでいるのに苦しんでいない?もはや彼の言葉か悪霊の言葉か判別できません。彼なのに彼でなくなっている。この男性は、当時のユダヤ人からすれば、「神様から一番遠い人」と言えます。異邦人。墓場に住む人。汚れた無数の悪霊につかれた人。全く制御不能。本人も周りもお手上げ状態。しかし。イエス様は彼に会うために来られたのです。

恐れに支配された人々 8-17節

イエス様は、悪霊に男性から出て行くよう命じられました。悪霊は近くにいた2千匹の豚に入り込み、豚はなだれを打って湖に駆け下り溺死。悪霊は「滅ぼす輩」であると同時に「滅びる輩」であることが見てわかります。男性は正気を取り戻しますが、『豚を飼う者たち』は『逃げだし』て町の人々に伝え、町の人々が出てきて『悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れ』ました。正気になった男性を見て大喜びしたのではなく『恐れた』。町の人々は男性とは違って「自分たちは正気だ」と思っていたことでしょう。でも正気だと思っている人々が正気になった人を見て恐れるとは?町の人々は悪霊につかれていなかったかもしれません。しかし『恐れ』に支配されていました。悪霊は『この土地から追い出さないように』イエス様に願いました。つまり、悪霊は男性だけではなく、その地域にも影響を及ぼしていたということです。『恐れ』に支配された町の人々はイエス様を丁重に追い出しました。

イエス様に従う人 18-20節

男性はイエス様のお供をしたいと願い出ます。しかしイエス様は『あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい』と言われ、男性はその言葉に従いました。彼はイエス様に帰ることで、我に帰り、家族に帰り、新たに村から町へ、さらに『デカポリス(10の町)の地方』へと自由に出かけていくことができるようになりました。彼は自立(自律)した人となったのです。さて。私たちは「何によって」自分をコントロールしているか(されているか)?悪霊や恐れでなくても、時に私の立ち位置を忘れさせ、私を振りまわし、自分や相手を傷つけるに至らせるもの、たとえそれが大切なものであっても、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、私に取って代わってしまうものが、身の回りにあふれていないか。時に依存症といわれるまでにならないか。この問題の根本は、身近な関係性にあると言われます。セルフイメージが形成され、アイデンティティが確立されるはずの身近な関係性。本来、その関係性で満たされるべきものを他のもので埋めようとして問題になる。ですから、その人を「治療」する以上に、身近な関係を見直し、関係性の再構築によってセルフイメージを回復し、アイデンティティを確立する。つまり自分を取り戻すのです。ならば。私たちの根本的なセルフイメージの回復とアイデンティティ確立のために一番必要なのは、イエス様との関係ではないか?イエス様はそのために来て下さった。イエス様に従うことで私を失うことはありません。イエス様によって、私は本来の姿を取り戻し、自立し治め活躍できるようになる。これもまた『神の子イエス・キリストの福音のはじめ(支配)』なのです。

8月23日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章1-11節から、「子とされた恵み」と題してメッセージです。


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