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子とされた恵み

「結果にコミットする」というダイエットトレーニングのCMがあります。コミットとは「約束の責任を果たす」「目標に対して積極的にかかわる」という意味があります。ダイエットトレーニングのトレーナーは、健康的な体になること(取り戻すこと)を約束し、共に寄り添い、積極的にかかわり、責任を果たします。生活習慣というものは1人ではなかなか変えられません。トレーナーがいてくれてこその変化です。しかしトレーナーがつかなくなったら?新しい生活習慣を維持できるか?元の生活習慣に戻らないか?リバウンドして元以上にならないか?ガラテヤ教会は、まさにそのような問題に直面していました。ということで、8月23日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章1-11節から、「子とされた恵み」と題してメッセージです。

かつての私 1-3節

コリント教会に「なんでそうなるねん!」と突っ込みを入れたくなるような逆戻り現象が起きました。そこでパウロはこの手紙で繰り返し、丁寧に、神の恵みを記してきました。そしてここではまず、当時の「主人と子ども」の関係から、彼らのかつての姿を記します。主人の子どもは財産の相続権を元々有します。しかし成人するまで『管理人や後見人』(前々回では養育掛)から教育を受けます。その間は『僕』と同じ扱いでした。ガラテヤの人々も元々神様に創造され、この世界に生まれました。しかし神様に面と向かって育ったわけじゃない。『この世のもろもろの霊力(「この世のもろもろの初歩的な教え」とも訳せる)』に向いて聞いて育ちました。今の世もホラーやオカルトに強い関心を示します。決して初歩的ではありませんが、最新の健康知識や科学的発見に目がありません。しかし、最新のものに蝶よ花よと飛び移り、知識の積み上げではなく上書きばかりになっていないか?人間関係もすぐに壊れてリセットばかりになっていないか?

今の私 4-7節

『時が満ちるに及んで』とは「時が満ちた」ということです。マルコによる福音書のイエス様の第一声が「時が満ちた」です。イエス様が私たちを罪と律法(その結果の呪いと死)から『あがない出すため』、マリヤから生まれ、ついにこの世界に来られました。あがない出すとは「対価を払って取り戻す」ということです。私たちは元々神様に創造されました。しかし神の子イエス様のような神ではありません。しかも神ならぬものに向いて聞いて育っていました。しかしイエス様は十字架にかけられ、私の身代わりに呪われ死んで下さいました。イエス様の神の子の立場に私を置くためです。これが対価。神様は私を取り戻し(イエス様も十字架の3日後によみがえらされて取り戻されている)、イエス様と私を同じ価値だと見なして下さった!パウロは『あなたがたは子である』『あなたがたはもはや僕ではなく、子である』『子である以上、また神による相続人である』と連発します。イエス様に使われる『子』と同じ言葉です。このことによって私たちは、『御子の霊』と共に、神様を『アバ、父よ』と呼べるようになったのです。

逆戻りしないために 8-11節

『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ』『あなたがたが心配でならない』『またもや、新たにその奴隷になろうとするのか』とパウロ。『新たに』とは「上から」という言葉。せっかく着せられたキリストというユニフォームがあるにもかかわらず、その上からなぜまた奴隷の服を着るのか?9節の『逆戻り』という言葉は「振り向く」という言葉。神様に向くのか?神ならぬものに向くのか?創世記から今にいたるまで常に問われていることです。かつての異教的習慣や『偽兄弟』『割礼の者』たちが吹き込もうとする律法的生活習慣に振り向こうとしていたガラテヤ教会。最初のダイエットトレーニングの話し。ただ痩せるためだけのものではありません。生活そのものを変えるためです。トーレーナーがつかなくなった後、以前の生活に逆戻りしないか?現状維持に精一杯か?それともますます新生活を喜び楽しみ謳歌できるか?新生活の助けになるのが、トレーナーにかわる、同じ経験をして新しい生活を満喫している人の存在ではないか?1人では難しくとも、そんな人が寄り添ってくれれば心強いのではないか?ガラテヤ教会や私たちには?『御子の霊』が寄り添って下さっているのではないですか。

子とされた恵み。それは父・御子・御霊との交わり。とことんコミットして下さる三位一体の神様。神様は私たちを喜び、私たちとの交わりを楽しみたい。私たちは、至れり尽くせりの、圧倒的に豊かな、三位一体の神様とその交わり(関係)に向いて身を置けば、真の富と成長と満足を知るようになるのです。

8月30日(日)の礼拝は、歴代志下第20章1-30節から、「進撃の賛美」と題してメッセージです。


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