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その信仰いつまでも変わりなく

9/20(日)は年長者祝福礼拝。毎年、聖書に登場する年長者にスポットを当ててメッセージしています。今回はカレブ。「犬」という名前。現代、犬はペットとして大変な人気ですが、聖書の世界を生きた人々にとってはあまり良いイメージがありませんでした。戦場で死肉をあさる野犬のイメージ。人を侮辱する時に使う言葉。一体カレブとはどんな人だったのか?民数記第13章1節-第14章10節、24節、ヨシュア記第14章1-12節から、「その信仰いつまでも変わりなく」と題してメッセージです。

共にある主に従わない人々 民数記第13章27-29節、31-33節

神様はモーセによってイスラエルをエジプトから救出し、先祖アブラハムに約束されたカナンの地へ導かれます。距離約500㎞。しかし2年経っても到着しない。なぜ?イスラエルの民は数百年間、パロの奴隷でした。奴隷根性(パワハラ環境下で見通しもなく、アイデンティティもセルフイメージも弱く、刹那的なネガティブ思考に走りやすい体質)が染みついている。しかし神の民として取り戻され律法が授与された。奴隷に律法は必要ありません。イスラエルはカナンに入るまでに、パロの奴隷から自立した神の民に整えられる必要があったのです。そのための2年。そしてついにカナンに接近!モーセは12部族の代表をカナン偵察に派遣。しかし偵察から帰ってきた12人の報告が真っ二つに割れた!一つは、「確かにめっちゃ良い土地。でも住んでいる民がめっちゃ強い、デカイ、恐ろしい!」。民はヘナヘナヘナ〜。奴隷根性が息を吹き返す。「お先真っ暗。なんで苦しい思いしてここまで来た?今度はカナンの民の奴隷だ。エジプトや荒野で死んでた方がマシだった」と、来た道を引き返し始めました。すると神様は彼らが願った通り、今までの2年を含めた40年間、荒野をさすらい、20歳以上の世代は死ぬと言われました。すると民はまたヘナヘナヘナ〜。「俺たちが間違っていた」とカナンに無理矢理入ろうとし、カナンの民に追い返されてしまいました。一見、彼らは悔い改めたかに見えます。しかし『彼らは、ほしいままに山に登った』だけ。神様が「カナンに入りなさい」と言われたら「イヤ」と言い、「ではあなたがたが願った通り荒野で死にます」と言われたら「イヤ」と言っている。ことごとく逆らい従わない。文句を言うだけで何もせず、目の前の悪いことだけを見て、楽な方に逃げているだけなのです。

共にある主に従う人 民数記第13章30節、第14章6-9節

報告のもう一つ。それがカレブの報告。彼はすぐさま異を唱えました。『主がわたしたちと共におられますから』必ず土地を得ることができる!そこにはモーセの後継者になるヨシュアもいましたが、カレブが先に声を上げた。神様はそんなカレブを評されます。『わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有する』。『完全に従った』とは「従い通した」「成し遂げた」という意味があります。従うとは無理矢理させられることではありません。それは奴隷です。従うとは、言われたことを主体的に成し遂げることです。世代は変わり、リーダーもモーセからヨシュアへ、イスラエルは戦いながらカナンを獲得していきます。カレブは85歳になっていました。若い世代と共に前線で戦い続けていた。そしてヨシュアにヘブロンを一族にください!と願い出ます。『今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです』『その町々は堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができる』。成し遂げる!変わりなく共におられる主と共に、カレブの歩みも変わることはなかった。世代間ギャップが言われます。埋めようのない感じ方、考え方、行動の違いがある。戦争を生き抜いた世代、高度成長期バリバリ働いた世代、バブルやその後を生きている世代、スパルタや根性で育った世代、個人主義やゆとり教育で育った世代、ガツガツ肉食系世代と草食系サトリ世代、様々言われます。みんな社会や時代の違いを背負って人格や性格を形成されている。意識せずに培われたものなのでなかなか自覚できない。変えるのが難しい。しかしそれを変えるヒント、乗り越えるヒント、結び合うヒントがカレブにある。カレブは奴隷世代。多くの人は変われなかった。でも彼は外側も中身も神の民となっていた。社会や時代に関係なく、共におられる神様に全く従ったから。この世界と私たちの創造者、全てを越えて共にいて下さる神様にピッタリくっつことで、私たちは変わらぬ神の民として歩むことができるのです。

犬という名の男。カレブ。「私は犬のような存在です」と自分に使うと謙遜を現す言葉になります。彼の同世代の多くは、神様に対しても上から目線で、何もしないで文句ばかりでした。しかし彼は神様に対しても、同世代のヨシュアに対しても、若い世代に対しても謙遜だった。家族や同胞のために戦った。そして多くの人が誤った方向に進む中、1人でも異を唱えることのできる人だった。神様に従う者は、なんと謙遜で、勇敢で、主体的でしょう。私たちもいつまでも変わりなく、主に従い続けましょう。主は、主の祝福の言葉を私たちの人生にも成し遂げて下さいます。

9月27日(日)の礼拝は、詩篇第20篇1-9節から、「幸い。主の御名を誇る」と題してメッセージです。


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