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私を持ち運んでくださる神

バージョン 2

9月18日(日)の礼拝は、年長者祝福礼拝。イザヤ書第43章1節〜7節、第46章4節から「私を持ち運んでくださる神」と題してメッセージでした。人生と信仰の先輩である兄姉を敬い、感謝を表すと共に、お互いを敬い合うために聖書に耳を傾けました。

私たちは神に愛されて創造された

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。』」「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに」。神様は私たちを創造し、造り、あがなってくださいました。その動機は愛です。「創造し」とは無から有を生み出す言葉。「私」という人格は私が誕生するまでこの世に存在しませんでした。私は無から生み出された唯一無二の存在です。「造られ」とは有る材料から形作る言葉。私たちの体は地球上に有る物質でできています。そういう意味では私たちはみな同じ。平等です。さらに「あがなった」とは神様との関係を回復する方法です。最初の人、アダムとエバは自ら神様との関係というパイプを外してしまいました。いわゆる原罪です。的外れ状態。だから後に続く私たちも最初から外れた状態で生まれるようになりました。しかしそれは私たちの側のこと。神様の側からすれば、アダムもエバも私たちも同じように丹精込めて最上の存在として創造し造られました。さらには神様との関係を回復するあがないまで用意してくださったのです。

私たちは神によって仕立てられる

「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。神様は創造し、造り、あがないを用意するだけではなく、仕立ててもくださいます。「仕立てる」とは「完成する」という言葉です。「仕立屋さん」はその人にぴったりな服をオーダーメイドしてくれます。ぴったりでなければ肩はこる、腕はしびれる、仕事がはかどりません。でもぴったりなら軽く感じる、疲れない、仕事がはかどります。また年を経ると体型が変わるかもしれません。仕立屋さんはその都度仕立て直してくれます。神様は、私たちを神様の名をもってとなえられる者として、神様の栄光を現す者として創造し、造られただけではなく、もっと神様の名をもってとなえられる者となり、もっと神様の栄光を現す者となるために、仕立ててくださり、生涯かけて完成してくださるのです。

私たちは神によって運ばれる

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。イザヤが生きた時代、イスラエルの人々は木で造った偶像を礼拝する罪を犯していました。自分が切り出した木の一部を神様に、一部を食器に、一部を薪に使っていました。何かあったら偶像を背負って運び出し、何かあったら偶像に「私を助けて下さい」と拝んでいました。しかし神様は、背負われるような神ではなく、私こそがあなたがたを創造し、造り、あがない、仕立て、背負い、生涯持ち運ぶよ!と言われるのです。私たちも偶像礼拝はもちろん、「神はいない」という価値観や社会を造り出し、自分は何ものか、愛とは何か、生きる目的は何か、何もかもわからなくなって、自分やお互いを傷つけ貶めてしまう、的外れに陥っていないでしょうか。私たちは神様に背負われる必要があります。その方法は、イエス・キリストという「あがない」を神様から受け取ることです。神様の大きな背中から世界の本来の様を知り、くつろぎ、歩き、学び、働き、生きる。そして永遠の新しい天と地まで持ち運ばれるのです。

キリスト教会ではともすると「罪人」が強調されます。生まれながらの罪人。はなから罪人。わが子に、物心つく前から「お前は罪人だ。私はお前を愛さない」と言い続けたらその子はどうなりますか?神様はずっと「愛しているよーっ!!!私が創造し、造り、あがない、仕立て、持ち運ぶんだからなーっ!!!」と語り続けておられます。罪の自覚は大切です。自覚するなら神様の語りかけに応えればいい。そうすれば私たちの側も「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」という価値を取り戻すことができます。神様に愛されたかけがえのないお互いを敬い合ってまいりましょう。

9月25日(日)の礼拝は、創世記第6章1節〜12節から、「悔いられる神様」と題してメッセージです。


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