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私たちは自由の子

私たちの歴史は自由を獲得するための歴史ではないでしょうか。様々な壁・溝・偏見・差別・隷属・支配を打ち壊しボーダーレスな世界を目指してきたのではないでしょうか。しかしそれらのものは姿形を変えながら大きくなっているのように思えます。自由の拳をあげればあげるほど自由ではなくなっていないでしょうか。パウロは、不自由な自由と本当の自由を明らかにし、いつの間にか自由を失っている私たちと、本当の自由を得ている私たちの姿を教えようとします。ということで、10月11日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章21節-第5章1節から、「私たちは自由の子」と題してメッセージです。

努力によって奴隷の子

『律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか』(4:21)。パウロはガラテヤ教会に入り込んで律法の行いを主張する「偽兄弟」や「割礼の者」や彼らになびくガラテヤ教会を皮肉まじりに挑発します。律法の書の1つ、創世記から、アブラハムの2人の息子について語ります。『またもや…産みの苦しみをする』(4:19)と言った通り出生話から始めます。1人は女奴隷の子。名前は出てきません。ここで重要なのは、パウロが女奴隷とシナイ山とパウロ時代のエルサレムとを関連付けたこと。シナイ山はイスラエルがエジプトから解放されて律法を授与された場所。元々自由の象徴。イスラエルは先の女奴隷とも関係がなかった。なのに。千数百年後、エルサレムのユダヤ人たちは律法の奴隷になっていた。そのエルサレムに教会が誕生したけれど、その中にも律法の行いを主張する人がいて、ガラテヤにまでそれを持ち込もうとしていた。しかしユダヤ人たちは「私たちは奴隷になったことはない!」と自負していました(ヨハネ8:33-35)。でも彼らは血のつながりがなくても、自由だと思っていても、奴隷になっていたし奴隷にしようとしていた。一生懸命努力して。律法は罪から自由になれないことを示し、本当の自由を渇望させる『養育掛(当時、奴隷の仕事)』。しかし「偽兄弟」や「割礼の者」は、『養育掛』をいつの間にか自分の「主人」としていたのです。

約束の子を信じて自由の子

『すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」』(4:27)。アブラハムのもう1人の息子。人間的には不可能と思われていたのに、神様の約束によって生まれたイサク。名前あり。母親は『自由の女』と記されます。ここで重要なのは、パウロが自由の女と約束の子と『上なるエルサレム』とを関連付けたこと。そして自由の女と上なるエルサレムを、約束の子を生み出す存在として重ねます。上なるエルサレムは神の国の中心。神の国の住民になるにはどうすればいい?神様がアブラハムに約束された祝福を、イエス様を通して与えて下さると信じるだけ。『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(5:1)。イサクは約束の子の雛形。イエス様が原型。この原型を信じる私たちも約束の子。イサクの名が記されるように、私たちも「いのちの書」に名が記される。神の国はすでに信じる者の内にありますが、やがて上なるエルサレムが新しい天と地に降りて合体し、目に見える神の国が現れることを黙示録は語ります。私たちは血のつながりがなくても、時代や国や人種が違っても、約束の子として等しく「新しいエルサレム」に立つのです。大事なのは、真の自由の子イエス様を「主」とし続けること。すると私たちの内にキリストの形ができるのです。

ここを読んでいると「放蕩息子の話」を思い出します。あれは放蕩息子だけではなく2人の息子の話。弟は父から遠く離れて罪の奴隷。でも悔い改めて父に向きを変えた途端、父が走り寄ってギュッと抱きしめ、家に迎えて大パーティ!一方兄はずっと家で真面目に働いていた。でもその心は父から遠く離れていた。彼は父の「言いつけ」だけを守る奴隷。彼も父の呼びかけに応えてパーティに加わるだけでよかった。父は弟息子の帰りを待ち、兄息子との交わりを望んでいた。兄と弟。律法学者と罪人、ユダヤ人と異邦人、偽兄弟・割礼の者とガラテヤ教会、そして現代の「恵みを忘れたクリスチャン」と「恵みに生きるクリスチャン」に重ならないか?これを語られたのはイエス様。自由を知り、神様との交わりの楽しさを知るには、このイエス様と共にある以外にないのです。

10月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信仰のタッチ」と題してメッセージです。


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