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幸い。楽しませて下さる主

詩篇第20篇はダビデのためにうたわせた歌でした。王が戦いに出る前に民がうたう祈りでした。第21篇もダビデのためにうたわせた歌です。そして王が戦いに勝利して帰ってきた時に民がうたう祈りでした。いずれもみんなでうたう祈り。11月1日(日)の礼拝は、詩篇第21篇1−13節から、「幸い。楽しませて下さる主」と題してメッセージです。

救われる主に感謝 1−2節

普通なら、国民は凱旋した王をほめたたえるはず。しかしここではまず『主よ』という呼びかけで始まり、王の勝利は『あなたの助け(救い/ヨシュア)』だと告白します。そして王も『大きな喜びをもつ』のです。この『大きな喜び』は「恐れて身震いする」という意味があります。普通なら、王が自らを誇るものですが、王も身震いするような半端ない勝利だと感じている。王にとっても主からいただく救いは「身に余る光栄」なのです。

祝福される主に感謝 3−5節

普通なら、凱旋する王を国民が迎えます。もちろんイスラエルの民もそうですが、それよりもまず『あなた』と呼ばれる主が『恵み』をもって王を迎えます。この『恵み』は「祝福」という言葉。そして『純金の冠』『いのち』『栄光』『誉れ』『威厳』と、これでもか!これでもか!というほど与えられ、祝福されるのです。そしてこれも『あなたの助け(救い/ヨシュア)によって』なのです。主が勝利を賜り、主が祝福を賜るのです。

楽しませて下さる主に感謝 6−7節

『まことに、あなたは彼をとこしえに恵まれた者とし』の『恵まれた』も「祝福された」という言葉です。主は王に勝利を賜い、祝福をもって迎え、なお『とこしえに』祝福し、『み前に喜び楽しませられ』ます。この『喜び』は先の『大きな喜び』とは違う言葉で「歓喜」です。主はめっちゃ喜んでる!王が身震いするほどに、主は与えてやまない、祝福してやまない、喜んでやまない、楽しませたくて仕方がない!なんでそこまで?『王は信頼するゆえ、いと高き者のいつくしみをこうむ』るのです。王が手柄をたてたから喜んでおられるのではなく、主を信頼したから喜んでおられる!信頼こそ私たち最大の行為。ここに『いつくしみ』が登場です。神様の約束に基づく愛と真実。王は主の約束を信じ、主は約束を果たされる。それが主の勝利、救い、祝福なのです。

さばかれる主に感謝 8−12節

『あなた(主)の右の手はあなたを憎む者を尋ね出す』『あなたは彼らを逃げ走らせ、あなたの弓弦を張って、彼らの顔をねらう』。敵と戦ったのは王ですが、主が徹底的にさばかれます。王の敵は主に敵対していたからです。背中を向けて逃げる敵に放たれた矢が敵の顔をとらえるのですから、その徹底ぶりが伺えます。敵対する者の「悪い企て」や『悪いはかりごと』は『なし遂げることはできない』とあります。第20篇に『主があなた(王)の心の願いをゆるし、あなたのはかりごとをことごとく遂げさせるように』とあるのとは対照的です。主に信頼する者はなし遂げ、信頼しない者はなし遂げられない。私たちには主への信頼あるのみなのです。

さて。詩篇第21篇は単なる凱旋感謝の祈りでしょうか。主と王の麗しい信頼関係を民が微笑ましく見つめ、安堵し、感謝しているように見えないでしょうか。私たちみんなで祈るべきは、王(国のリーダー)の勝利にまさって、主と王の麗しい関係ではないでしょうか。この麗しい関係こそ、人々に安心と希望と喜びを与えるのです。そして私たちこそ、主との麗しい関係を楽しむのです。私たちは主イエス様の救いを信じ、御霊という油を注がれ、神の子とされた者たちです。主はこの世界のあらゆるリーダーや国をさばき、凌駕し、私たちに新しい天と地という相続を賜い、主と同じ復活と栄光を賜い、とこしえに祝福されるのです。『信頼するゆえ、…いつくしみをこうむって、動かされることはない』。主は果たされ、私たちはなし遂げる。この世界における勝ち負けは問題ではありません。次の世界に主と共に立っているかいないかが問題なのです。この身に余る光栄を目標に、日々主に祈り、主を賛美し、主と共に歩ませていただきましょう。

11月8日(日)の礼拝は、詩篇第22篇1−31節から、「幸い。遠く離れない主」と題してメッセージです。


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