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幸い。遠く離れない主

詩篇は祈りであり賛美。創世記や福音書のような物語ではありません。しかし第1篇2篇は幸いな者とは何かが記され、第3篇から朝や夜、様々な時に祈るうたが記され、最近の第20篇21篇では王の出ると入るをみんなで祈るうたが記されていました。個人の祈りからみんなの祈りへ。物語ではないけれどつながっている。詩篇の多くの作者であるダビデは、主に油注がれ、主に信頼し続け、主と麗しい関係にあった者。民はそんな王を見て喜び、安心し、主に感謝しました。王の幸いは民の幸いと連動している。そして第22篇。王の個人的な祈りに見えます。そして主との麗しい関係はどこへ行った?と思える半端ない苦しみにあります。11月8日(日)の礼拝は、この詩篇第22篇から「幸い。遠く離れない主」と題してメッセージです。

信頼の告白 1-5節

ダビデは生涯において、危機的な状況に何度も見舞われました。第22篇も『わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず』と叫ぶほど、主の存在と救いを全く感じられない状況です。しかし『夜よばわっても平安を得ません』と叫びます。これは「夜も黙ってはいません」と訳せます。彼は昼夜を問わず主に叫び続けました。そしてダビデは主とイスラエルの歴史を振り返ります。『イスラエルのさんびの上に座し』とは神輿を担ぐようなイメージでしょうか。イスラエルのさんびの上に主が共におられ、彼らと歩み続けられました。『信頼しました』『助け出され』『救われ』『信頼して』とあるように、信頼と救いは常にワンセットでした。だから私(ダビデ)もあなた(主)を賛美し、信頼しています!ダビデの叫びは不信仰の叫びではなく信頼の叫び。さらにもっとますます食らいつく叫び。主が遠く離れているとは決して思っていない叫び。主との麗しい関係は、ダビデの方からは決して失われていないのです。

だからこその叫び 6-21節

ここにダビデの酷い扱われようと激しい苦痛が詩的に表現されます。『虫』は「緋色」を意味する言葉。染料にも使われた虫。プチッと潰すと血のような色が出る。そんな「虫けらのように」ダビデは扱われました。人々は『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ、主は喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と嘲ります。彼らはダビデが油注がれた者だと知りながら、ダビデのために祈らず、敵対しました。いえ主に反逆しました。ダビデの身も心もボロ雑巾。苦痛は麻痺するどころか鮮明になるばかり。渇ききった土の上に干からびた己が転がされ、最後の止めに刺し貫かれる。その傍らで『衣服』がくじ引きされている。この『衣服』は「裏切り」という言葉です。ダビデはのたうち回る中でなお繰り返し『遠く離れないでください』『お助けください』『助け出してください』『救い出してください』と叫びます。ダビデを創造し、母を通して生み出したのは主!だからこその主への叫び。この叫びは主以外に持って行きようがないのです。ここにきてもなお、主との麗しい関係は、ダビデの方からは決して失われることはありませんでした。

賛美が救いの証しとなる 21-31節

悲惨極まりない叫びが続いたのに、口語訳聖書では22節からいきなり賛美です。どうつながった?21節の『あなたはこたえてくださった』が抜け落ちています。『こたえ』とは「うたう」「住む」という言葉。主はダビデの告白・叫び・祈りに響いて下さった。遠く離れるどころか共に住んでおられた。ダビデはその主にさらに響いて賛美したのです。賛美はダビデに止まりません。『兄弟たち』『会衆』『主を恐れる者』『ヤコブのもろもろのすえ』『大いなる会衆』『主を尋ね求める者』と賛美します。『地のはての者』『もろもろの国のやから』『地のほこり高ぶる者』『ちりに下る者』『おのれを生きながらえさせない者』といった今まで主を知らなかった人々にも広がります。主との麗しい関係は、周りの国々や異邦人にまで幸いを広げたのです。ダビデたちの賛美が救いの力の証しとなりました。ダビデは『主を恐れる者の前で、わたしは誓いを果たします』と告白します。第20篇21篇とつながる。信頼する者はなし遂げるのです。

第22篇はイエス様の受難の歌として超有名です。ダビデはミニチュア、イエス様がオリジナル。しかしどうして苦難を味わうのか?神様は酷い目に遭わせても食らいついてくる者を「かわいいやつだ」と、ご褒美をくれるのか?酷い目に遭うほどご褒美が大きくなるのか?神様が酷い目に遭わせるわけではありません。私たちはこの世界にいる限り、みんな様々な苦難にあう可能性があります。なのに、自分が苦難に遭わなかったら、苦難に遭っている人を批難したり嘲ったりしますか?傍目の見物といきますか?そんなことできない!他人事ではない!わが身のこととして共有する!いや肩代わりする!それが真の王イエス様。私たちの主。十字架がその究極の姿。私たちは苦痛を共有することで互いを知るだけではなく、イエス様の優しさ、懐の深さ、気前の良さを知る。ダビデは王になる中でこの経験を主と共に積んだのです。

あなたが元気で調子のいい時だけ共にいてくれる主ではありません。あなたがどんなであっても共にいて支えておられます。主の方からも、いえ主の方こそ、私たちとの麗しい関係を失われることは決してないのです。

11月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信じて見る」と題してメッセージです。


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