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わずかなものに忠実に

イエス様の初臨と再臨に思いを馳せる待降節。今回もイエス様のたとえから、リアルイエス様を迎えるその日までの心と生活を整えられたいと思います。12月6日(日)の待降節第二週礼拝は、マタイによる福音書第25章14-30節から、「わずかなものに忠実に」と題してメッセージです。

私たちは管理・使用者 14節

『主人(主)』と『しもべ(奴隷)』が登場します。奴隷といっても、むち打たれ、食事もままならない、こき使われる奴隷ではありません。律法で奴隷は手厚く保護されました。奴隷は主人の所有でしたが、人として家族として扱われ、跡取りになることもありました。様々な理由で自由になれました。買い戻して自由にすることもできました。50年に1度の「ヨベルの年」には奴隷全てが解放されました。主人の元にずっといたいと解放を拒む人もいました。とにかく。しもべは主人の所有。基本的にしもべに「所有権」はありませんでした。しかし管理・使用権はありました。これはイエス様のたとえ。主人はイエス様、しもべは私たち。所有権がないと不服?考え方によっては所有者としての責任はないともいえます。この世界は私たちのものでしょうか?太陽の光、空気、水、大地、様々な動植物…。私のもの?あなたのもの?本来、誰のものでもない。でも使いまくっています。使い方はともかく、私たちは所有者ではなく、管理・使用者なのではないでしょうか。

能力に応じて与えられる 15節

主人は旅に出ることになりました。そこでしもべたちに財産を任せます。最後の1タラントの人、少なくてかわいそう?『タラント』は「タレント」の元になっている言葉。当時のお金の単位。日当の6千倍。1タラントは16年半ほどの収入。全然少なくない!2タラントなら33年分!5タラントなら82年分!ご主人なんと太っ腹!逆にそんなに任されると気が重い?主人は『それぞれの能力に応じて』任せました。しもべの能力をよ〜くわかっている。「お前は偉い」「お前は足りない」と言ってるんじゃない。それぞれに相応しいピッタリな量を任せました。イエス様も私たちそれぞれに相応しいピッタリな賜物を与えておられます。イエス様はあなたを一番よく知り、あなたの可能性がどれだけ大きいかも知っておられる。あなたを創造されたのは主だから。イエス様は私たちみんなの主。タレントさんをうらやむ必要はありません。互いに比べる必要も、競う必要も、誇ったり卑下したりする必要もないのです。

何をしているかが問われる 16-18節

主人は『だいぶ時がたってから』帰ってきました。主人はしもべに財産を任せただけで細かい指示はしていません。倍額もうけろとも言っていません。最初の2人は自発的に何ができるか考え行動しました。その結果としての倍額のもうけでした。イエス様も地上を離れて随分経ちます。再臨全然来ない。メッチャご無沙汰。でも、イエス様がいないからこそ私たちの本音・本性が現れる。そしてその行動が問われているのではないでしょうか?今、私たちは何をしている?自然壊してない?小さな犯罪から大きな戦争まで、残虐非道を繰り返していない?逆に自然を豊かにしている?身近な家族関係から地域、日本、世界にまで平和を広げている?自分にはどんな賜物があるかをわきまえ、それをどう活かし、生活しているでしょうか。

主は気前のよいお方 21節

『忠実な』は「真実な」「信頼できる」という言葉。真実と信頼は表裏一体。主人は先の2人を褒めます。「メッチャわずかなものに忠実だったから、メッチャ多くのものを任せるわ〜!」。え〜、82年分とか33年分でもメッチャ多いのに、それがメッチャわずかなんて!ご主人どんだけ太っ腹!器デカ!先の2人からわかることは、主人の帰りが遅いほどもうけられるし、財産を活用するほど必ず増える、ということです。そして主人はもっと任せてくれるということです。さて。気になるのが1タラントのしもべ。彼は言います。『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました』。ならば何とかもうけようとしません?商売失敗するのが怖かった?「ならば銀行に預けておけば利子が付いたのに」と主人は至極真っ当な応答。でも彼は財産を隠して何もしなかった。おかしくない?彼の主人って一体誰?私たちは主を知っているはずです。イエス様は種まきのたとえから、まき散らすほどに必ず多くの収穫、大きな成長があることもお話しくださいました。真逆なイメージではないでしょうか。彼は『悪い怠惰なしもべ』と呼ばれます。『悪い』はサタンを指す言葉。『怠惰な』は「臆病な」「尻込みする」という言葉。彼は何を主人とし、何に怯え尻込みしていたのでしょうか。

主は真実です。私たちは、私たちの主イエス様が帰ってこられる日まで、イエス様の言葉に従って、ワクワクしながら自発的に、賜物を活かして歩もうではないでしょうか。私たちは主の自由(神の子の身分)をすでに得ていますが、再臨によってさらに主と同じ栄光にあずかり、新しい天と地という半端ない相続財産を主と共に治めることになるのです。

12月13日(日)の待降節第三週礼拝は、ルカによる福音書第1章67-80節から、「ザカリヤの賛歌」と題してメッセージです。


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