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私たちの劇的ビフォーアフター

バージョン 2

10月2日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章9節〜17節から、「私たちの劇的ビフォーアフター」という題でメッセージでした。パウロはコリント人への第一の手紙第3章で、私たち教会が神の畑であり、神の建物だと語ります。教会堂や礼拝堂ではなく私たちが神の建物。神の畑ということに関しては以前、向日葵をたとえにお話ししました。今回は神の建物について、そして神の建物を建てる主の働き人パウロたち、引いては現代の主の働き人である牧師について、メッセージでした。

土台をすえる

メッセージの題。リフォームの人気番組のタイトルにもあります。問題だらけの建物のリフォームのため匠(建築士)が登場します。匠がまずすることは土台をすえ直すこと。それと同じように、パウロや牧師の働きの第一は、私や私たち教会の土台をすえることです。土台はキリスト。私たちの救いはキリストから。神の力や知恵を知るのもキリストから。神の奥義に入るのもキリストから。神の子が神の子らしく成長するために見るべきは神の子キリスト。世の中の波風にもびくともせず、永遠の命と復活を与えられ、新しい天と地に至るまで、私たちを盤石にするのはキリスト。とにもかくにもキリスト。パウロや牧師たち主の働き人が土台ではありません。キリストが土台。キリストだけが土台なのです。

神の家を建て上げる

建物はその土地の気候や住人の用途によって、使う材料や形も変わってきます。金や銀が最高級で、木や草がダメだとは言えません。建物は千差万別です。先ほどの人気番組に登場する匠も、それまでの生活環境を観察し、住人の意見に耳を傾け、将来の長きにわたる住人の新しい生活に焦点を当ててリフォームします。それと同じように、キリストという土台は同じでも、私の生活や私たち教会の営みは千差万別です。パウロや牧師、主の働き人はそういった違いをよく観察し、様々な声に耳を傾け、さらには神様の御心を求め、私や私たち教会が後の日(「かの日」)に神様の前に喜びを持って立つ(建つ)ことができるように、ふさわしい導きを心がけるのです。

御霊が宿るために

パウロは私や私たち教会を「神の宮」だと語ります。住人は神の御霊。では私や私たちはどこに?私たちも神の宮の住人です。私たちも神の子とされたから。私や私たち教会は神の宮であり、神の家族の交わりです。先ほどの人気番組。リフォームが完成すれば住人がやってきます。建物は匠のものではありません。匠がそこで生活するのでもありません。匠はいなくなります。肝心なのは住人たちの新しい生活。その生活が素晴らしいものになれば、匠は良い仕事をしたと言えます。それと同じように、「あの教会は○○牧師の教会だ」と言われることは主の働き人の本意ではありません。ましてや働き人がキリストと置き換わるなら、神の宮を破壊する者となります。主の働き人は、私たち教会が彼らに依存することなく、神の御霊と二人三脚で、またお互いもしっかり結び合わされて歩むことを願っています。私たち教会が人々を招き、神の家族を新たに生み出す喜びの営みを継続することを願っているのです。

コリントの町には壮麗なギリシャ神殿がありました。しかし神殿や町では「コリント化する」と揶揄されるようなドロドロした営みが繰り広げられていました。しかしコリント教会は神の宮!どんなに小さく弱く貧しく見えても神の宮!コリント化するのではなく、キリスト化していく営みが委ねられている!私たちも同じです。キリストを土台として、御霊を住人として、成長させてくださる父なる神様と共に、喜び楽しみ歩ませていただきましょう。

10月9日(日)の礼拝は、ローマ人への手紙第12章1節〜5節から、「きよめのプロセスと目的」と題してメッセージです。


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