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チームで宣教

一週間に一度、日曜日の礼拝に集う時(最近はオンライン出席も)、みなさんはどんな思いで集っておられますか?一週間イヤなこと、問題がいっぱいだった。ヘロヘロになる一方。不満をぶちまけたい!下降線を辿って礼拝に着地でしょうか?逆に、一週間素晴らしいこと、喜びあふれることがいろいろあった。元気になる一方。分かち合いたい!その勢いのまま礼拝に突入でしょうか?1月17日(日)はホーア師&八重師記念礼拝。マルコによる福音書第6章6−13節から、「チームで宣教」と題してメッセージ。そこに『さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した』とあります。弟子たちは、イエス様のもとで座学実践を繰り返し、ついに実習派遣。そしてイエス様のもとに帰ってきて『みな報告』しました。ここから、私たちの日常(宣教)について学びましょう。

宣教の持ち物は権威 6−9節

イエス様は12弟子を2人ずつ宣教に『つかわすことに』されました。この『つかわす』は「支配を広げる」という意味があります。何の支配?「神の子イエス・キリストの福音の支配」です。そこで必要な持ち物が記されます。それはただ一つ。『けがれた霊を制する権威』。さらに大事な部分は『権威』。けがれた霊を制するだけでなく『罪をゆるす権威』という時にも使われます。この『権威』は「支配力」「影響力」という意味もあります。イエス様ならぬ者の支配があるところに、イエス様の支配をもたらす力。イエス様でしか与えられない力。宣教に必要なのはこの『権威』のみ。あとは最小限。短期実習でもありました。当時は毎日着替え、シャワー、洗濯というわけでもありません。シンプル。ミニマム。今時断捨離が言われます。人生は旅とも言われます。そういう生活を選択する若い人もおられます。私たちに本当に必要なのはイエス様の権威。あとはシンプル、ミニマム、身軽でいいのではないでしょうか。

宣教は腰を据えて 10−11節

短期とはいえ数日間の宣教実習。当時は行く先々にホテルや民宿があるわけでもありません。旅人は一般の家に泊まることもありました。しかし泊めてくれる家に巡り会うためには一軒一軒訪ねなければなりません。泊めてくれる家もあれば断る家もある。町から追い出されることもある。でも泊めてくれる家があれば、その家を拠点に町を一巡できる。でも町全体が拒絶すれば『抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落』す。これは「イエス様の福音の支配を受け入れないことに関して、私たちに責任はない」ということです。では私たちには他に責任があるのか?それは福音を伝えるということです。相手が受け入れようと受け入れまいと、私たちには伝える責任がある。ようしません?拒絶されたり迫害されるのが怖い?肝心なのは「腰を据えて」ということ。相手の生活に丁寧に向き合うことで伝える、ということなのです。

宣教は仕えつつ 12−13節

ここに弟子たちの福音の3つの伝え方が記されています。まず『悔改めを宣べ伝え』ました。『悔改め』は、「方向転換して心や考えや人生を変える」ということです。バプテスマのヨハネも悔い改めを説きました。罪とは「的外れ」です。神様から的を外している。だから的を戻してほしい!それが悔い改めを宣べ伝えること。次に『悪霊を追い出し』ました。『けがれた霊を制する権威』を授けられていましたから。広く解釈すれば「神ならぬ支配からの解放」です。今時、悪霊に限らず、様々な依存的支配がたくさんあるのではないでしょうか。この問題は身近な関係から捉え直すことも大切です。最後に『大勢の病人に油を塗っていやした』。『油を塗る』とは今でいう「薬を塗る」のと同じ。そして『いやした』は「仕えた」「奉仕した」という言葉。弟子たちは家に泊まり込んで、権威を振りまわし、「ただ飯」を食っていたのではありません。人々の生活の問題のために、権威を用い、腰を据えて仕えたのです。

この礼拝はホーア師&八重師記念礼拝。ホーア師は1919年に英国から日本に来られ、八重先生をはじめ、救われた複数の日本人青年と共に、1943年まで東京や大阪で宣教。関東大震災の時も救援活動を展開。戦後いち早く日本に戻り、天授ヶ岡の地で教会と幼稚園の礎を築き、戦後の子どもたち・人々に仕えられました。そして八重先生をはじめ一緒に奉仕した青年たちは、戦後日本のキリスト教界を形成するのです。ホーア先生や八重先生の宣教スピリットは12弟子、後の12使徒から続くイエス様の御霊と権威によるのです。私たちもその宣教スピリットを継承しています。1人で何でもできるものではありません。弟子たちもチームで、ホーア先生や八重先生もチームで、そして私たちもチームで宣教するのです。権威は一つでも賜物はみな違います。組み合わせと働きの可能性は無限大。私たちはこの礼拝から出かけて行き、人々に仕え、主の支配を広げ、その苦労や喜びを、主の前に持ち帰って分かち合う。そして励まし合い、祈り合い、また手分けして出かけて行く。座学実践の繰り返し。私たちもリアルな主の弟子、そして主の『使徒』なのです。

1月24日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章16−26節から、「自由の行い−霊的生活で実を結ぶ」という題でメッセージです。


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