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自由の行い−霊的生活で実を結ぶ

自由とは「自らの由(わけ)」を知り、「自らの由」に従うことです。私たちは「神のかたち」「神の子」。そしてイエス様こそ「神のかたち」「神の子」の原型(オリジナル)。だからイエス様に私たちの自由がある。そして「自由の行い」は神の愛を燃料にした信仰を働かせることでした。神の愛と一つであるイエス様なら、この人やあの人にどんなふうに声をかけられ、どんなふうに仕えられただろうか?そう問いながら、考えながら、行動する。それが自由の行い。信仰、行い、そして今回はその結果である「結実」について学びましょう。1月24日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章16−26節から、「自由の行い−霊的生活で実を結ぶ」と題してメッセージです。

肉を中心とした生活 17-21節

『なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる』。今まで父なる神様の愛、イエス様の自由と来ましたが、御霊の登場です。御霊は私たちが神の子として生まれるための助産師であり、成長のための真の養育掛です。しかしかつての私たちは『肉の欲するところ』に歩んでいました。『肉』とは肉体や物質世界、神様抜きの「この世」などを意味します。肉を中心とした生活の結実は『不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである』。えげつない?『不品行、汚れ、好色』と『偶像礼拝、まじない、敵意』は表裏一体です。これらは神様との関係を捨てて、神でないものに浮気することで始まるもの。それは人と人との関係にそっくりそのまま広がります。『争い、そねみ、怒り』と『党派心(利己心)、分裂、分派』も表裏一体。神でないものに浮気したお互いがどんな関係になっていくかを表します。そして『ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐい』となります。怒りや嫉妬で自分を失う。やりたい放題のはずが、コントロール不能になっている。自由がなくなっているのです。『肉』だけの世界は激しく変化し朽ちていきます。刺激も強烈。変化の激しいものを中心に生活するなら、互いを傷つけ、振りまわされ、振り落とされ、朽ちていく。『このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない』のです。

霊を中心とした生活 16節、22-26節

『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない』。『もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか』。ここに出てくる御霊は文脈上「御霊」を意味しますが、私の「霊」と解釈することもできます。御霊は私の霊の養育掛。御霊によって歩くなら私の霊によって歩けるようになる。御霊によって進むなら私の霊によって進めるようになる。霊を中心とした生活。肉体や物質世界から影響を受けにくくなるばかりか、肉体や物質世界に影響を与えるようにならないでしょうか。『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制』をもたらすのです。『愛、喜び、平和』は神様と私の関係の中でまずいただく実。その実によって私たちお互いの結ぶ実が『寛容、慈愛、善意』。神様と私たちお互いの関係によって自分の中に結ばれる実が『忠実、柔和、自制』となる。自制。セルフコントロール。自分を取り戻している。御霊に私の使い方を学ぶ。使い方が身につけば私が主体的に自らを活用できる。「この世」を癒し、回復し、潤すために活用できる。だからといって御霊が不用になるわけではありません。御霊との関係がなくなれば元の木阿弥。「御霊の」実は結べなくなるのです。自由とは何か?のこたえは神様という一点にしかありません。一点といっても外しようがないほど大きな一点なのですが、私たちはこの一点が最も不自由であり、それ以外が自由だと思っていないでしょうか?確かにこの一点以外は「何でもあり」です。どんなえげつないことでもできる。どこまでも自分を貶めることができる。それを都合のいい言葉で正当化していないか?それがパウロの言う『虚栄』です。

今の世界はやがて終わりを遂げます。新しい世界を引き継げるのは、御霊によって進み続ける「霊なる私」のみ。新しい復活の体がちゃんと与えられます。その日を喜びつつ、どんな中でも変わらずに御霊の実を結ぶために、御霊との旅を楽しんでまいりましょう。

1月31日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章20-35節から、「十字架に向かう賛美」と題してメッセージです。


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