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幸い。栄光の王が入られる

あなたの家に超有名人が来ることになったらどうするでしょうか。あなたの好きなアーティスト。あなたの尊敬する大企業や国家のリーダー。向こうはあなたを知らないはずの人。「家が小さい、汚い、見せられない!」「こんな私に?会うなんて恥ずかしい!」と断ります?「そんなこと関係ないよ。ただあなたに会いたい、語り合いたい、友達になりたいんだ!」なんて言われたら、めっちゃ嬉しいんじゃないでしょうか。ダビデはまさにそんな心境を詩にしました。どんなすごい人も小さく思えるほどの、でっかい主が私の内に来てくださる!その感激やいかに!2月7日(日)の礼拝は、詩篇第24篇1-10節から、「幸い。栄光の王が入られる」と題してメッセージです。

大きな主 1-2節

ダビデは若い頃から羊飼いとして野外で過ごしました。大空を巡る太陽や満天の星を眺めて。その圧倒的な美しさ、大きさ、豊かさに感動し、それらの創造主であり、天地万物をはるかに越えるでっかい神様をほめたたえました。それが詩篇8篇や19篇となりました。そして24篇で大空から大地へ、大海や大川に視点が移ります。現在とは比較にならないほど森林や生物種も豊かで、海も川も澄んでいて、命があふれかえっている。主の知恵の圧倒的な豊かさ深さ大きさに感動せざるを得ませんでした。私たちも雄大な自然界に対峙する時、無条件に感動を覚えます。思わず感嘆の声が出ます。涙が出たり拝みたくなる人もいます。神々しい。そう!神様が創造されたから神々しい。ならば、神様がどれほど素晴らしいか、少しはわかるのではないでしょうか。

大きな主を遠慮なく求める 3-6節

『手が清く、心のいさぎよい者』の『いさぎよい』は「子どものような」、『その魂が空しいことに望みをかけない』の『かけない』は「向かない」、『主から祝福をうけ、その救の神から義をうける』の『うける』は「向く」という意味があります。つまり、子どもが知らない人に向いて得体の知れないものを受けとるのではなく、親に向いてその子にとって本当に必要なものを「ただ」受けとるように、私たちは創造主である神様に向いて、本当に必要な救いと祝福を「ただ」受けとるのです。それが『主の山に登るべき者』であり『聖所に立つべき者』なのです。その模範が、ここに出てくる『主を慕う者のやから』『み顔を求める者のやから』ヤコブです。ヤコブは一癖も二癖もある面倒くさい人でした。しかし主から祝福を受けとることに関しては、子どものように脇目も触れず、まっすぐで、ひたむきでした。主を求め、主に求める。そうやって彼は成長していきました。それは私たちも同じです。

大きな主が入ってくださる 7-10節

ここは戦いに勝利した王が、たくさんの戦利品を携えて凱旋する光景を思い起こさせます。迎え入れる門番と凱旋してきた兵士とのかけ合いです。兵士は王をこう呼びます。『栄光の王』『強く勇ましい主』『戦いに勇ましい主』『万軍の主』。この詩は『ダビデの詩』です。ダビデは誰を思い起こしているのか?世界の創造主。でっかい主です。そして『門』を『とこしえの戸』と呼びます。「永遠の門よあがれ!主が入られる!」。イエス様こそ、この主であり王です。受肉前のキリストとして天地万物を創造し、ヤコブとレスリングして祝福を授けたお方。イエス様は誰も勝つことのできなかった死に勝利し、復活し、天に上られました。そして私たちのために、永遠の命と復活の体と新しい天と地という圧倒的な祝福(戦利品)を用意しておられます。私たち1人1人が、自分の心の門をあげ、主を迎え入れる。そうすれば私たちも主と共に、新しい天と地の『とこしえの戸』をくぐることができるのです。

有名人やスーパースターが来てくれるのも嬉しいですが、まず主に来ていただくことが重要です。小さい?汚い?見せられない?そんなのある意味当然です。自分ではどうにもなりません。主は私たちが小さいから入れないのではなく、汚いから入りたくないのでもない。私たちが迎え入れないから入れないだけ。とにかく入っていただくことが先決。そうすれば主は喜んで、私をも大きく、きよく、主に似る者としてくださるのです。

2月14日(日)の礼拝は、詩篇第25篇1-22節から、「幸い。道を示される」と題してメッセージです。


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