カテゴリー

幸い。道を示される

「罪ってなあに?」と子どもに質問すると「悪いこと」「嘘をつく」「盗む」「意地悪する」など、いろんな返事があります。大人は「犯罪」と結びつけることが多いです。捕まらなかったら、有罪にならなかったら罪ではない?また日本は「恥」の文化だと言われることも。でも現代日本人は「罪」も「恥」もどれほど理解しているか?私は小さな頃から、教会や親から罪とは何かを教えられました。しかし罪を意識させられるほど、切り捨てようとするほど、囚われていました。罪から解放されるには?ということで2月14日(日)の礼拝は、詩篇第25篇1-22節から「幸い。道を示される」と題してメッセージです。

私の道を示されるのは主 1-5節

この詩篇はダビデが罪のゆるしを求める祈りだと言われます。え?小さい頃から主を信じ、王にまでなったダビデにも罪がある?ダビデがまずしたのは主に向かって祈ること。『主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください』と求めました。『大路』は「旅」「習慣」を意味する言葉。『道』はみんなが主につながる道を指します。ダビデは主にみんながつながる道の中でも、とりわけ自分が歩むべき道、人生となる、習慣となる、私ならではの道を求めます。さらに『あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください』と、主も一緒に歩いて導いてくださいと求めます。これは私たちが医者に行くのに似ています。どこに問題があるか、どんな治療をするか示してくれます。癒しと回復のために寄り添ってくれます。罪の自覚は大切。主に向かうことはもっと大切。罪からの解放と癒しの道を示されるのは主なのです。

私の罪をゆるされるのは主 6-11節

『わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください』。『罪』は「的外れ」を意味する言葉。「的」は主。聖書が言う根本的な罪は主から的を外すこと。すると行動も的が外れていく。それは「悪いこと」や「犯罪」ともなる。それが『とが』。ダビデはそれを自分で何とかしようとするのではなく、もとい、主に的を戻し、主に道を求めました。しかし『思い出さないでください』とは虫が良すぎる?この求めは『あなたのあわれみと、いつくしいを思い出し』と『あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出し』という言葉に挟まれています。『いつくしみ(約束に基づく愛)』でサンドイッチ!主は罪をさばかれますが、それ以上に、その人を愛されるお方。だから身代わりに十字架で罪のさばきを受けられた!私たちはさばかれることを恐れて主からますます外れていくのではなく、愛される主にますます近づくのです。『それゆえ、主は道(旅、習慣)を罪びとに教え、…へりくだる者にその道(旅、習慣)を教えられる』。「更生」という言葉があります。しかし社会が受け入れなければ「更生」は困難です。しかしその人を理解し、受け入れ、共に歩いてくれる人がいれば、「更に生きる」ことができる。主は私たちの道を用意されました。それはゆるされ受け入れられている証し。主は私たちと一緒に人生の歩き方と良い習慣を教えてくださるのです。

全ての道のために私の道を選ぶ 16-22節

ダビデはこの詩篇で、自分の罪だけではなく、敵のはずかしめから守られるように、そしてイスラエルのあがないと悩みからの救いも求めています。この詩篇は単に、ダビデの罪のゆるしを求めているのではありません。罪は関係性の中にあるものなのです。その人単独で的が外れ、とがを犯すのではない。身近な家族の関係から大きな国際関係に至るまでの、様々な歪み、ストレス、怒り、憎しみが的を外させ、とがを誘発させる。それも長い歩みの中で習慣として培われる。罪は絡みに絡んだ、複合的で根深いものなのです。でも私たちはそこを見ようとしません。表面に浮かび上がった部分だけさばいて終わりにしてしまいがち。根本的な解決に至らず繰り返す。「どうしてこんなことが?」と闇の中。そして身近な関係から大きな国際関係にまで闇はまた広がる。悪循環。だからもとい。ダビデも私たちもそれぞれが、常に主の道に戻る必要がある。『主はその選ぶべき道をその人に教えられる』。主が『その人に』用意された道を選び取る必要がある。そこには闇ではなく、『主のまこと』『恵み』『いつくしみ』『公義』『誠実』『潔白』があるのです。

『わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるから』。私は罪に目を向けてばかりでした。罪の自覚は大切ですが、それだけでは解決がありません。主に目を向ける。それが習慣となる。すると心の奥底まで主の温かな光が差し込む。表面上の罪の奥に、様々な問題が隠れていることがわかってくる。そこには時間をかけて培われた、多くの関係性の問題が絡み合っていた。過去の道を主と共に紐解くことで、「自分の罪」を「誰かも悩んでいる問題」「丁寧に向き合うべき課題」と捉え直すことができるようになりました。解放と癒しです。それは自分に止まらない。これからの道は、同じような問題に悩む誰かのためにあるのです。

2月21日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第6章1-6節から、「信じて向き合う」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved