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幸い。誠実に歩む

私が小学生の頃は高度経済成長期。山野を切り拓いた新興住宅地域に住んでいました。若い家族や子どもがたくさんいました。クラスの友人とも大変仲良し。学校が終われば一緒に野山を駆けまわっていました。「こんな楽しい日がずっと続くといいな」と思い、犯罪のニュースを聞く度に「ぼくたちのような関係が、大人になっても続いたら、こんなことは起こらないだろうに」と話し合ったりしました。しかし、私は大人になり世の中も変わり、「そんな単純には行かない現実」を知るようになりました。私たちは清濁入り乱れる世の中に生きている。そんな状況でダビデが詠んだ詩を味わいましょう。2月28日(日)の礼拝は、詩篇第26篇1-12節から、「幸い。誠実に歩む」と題してメッセージです。

主が私の選任(専任)弁護者 1-2節

『主よ、わたしをさばいてください』は「わたしを弁護してください」と訳せます。そして『迷うことなく主に信頼しています』と告白し、『わたしの心と思いとを練りきよめてください』と求めます。この『練りきよめて』は「精錬する」という言葉。あなたが私の弁護者として、どうひっくり返しても叩いても、これ以上何も出ないまでに徹底的に調べ上げてくださって結構です!という信頼の求めです。また精錬は純度を上げるわけですから、調べる中で私の純度を上げて、あなたの弁護に相応しくしてください!という思いも込められています。私たちはダビデのように主に包み隠さず見せることができるか?主を信頼しているか?隠し事がある?あったら断罪される?隠していても良くならない。自分の努力できよくなるものでもない。主は断罪されるのではなく弁護される。主の弁護に相応しくきよめてくださるのです。

私のなしうる誠実 3-8節

今度はダビデの側です。『あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、わたしはあなたのまことによって歩みました』。『いつくしみ』は「約束に基づく愛」、『まこと』は「真実」。主の愛と真実が彼の『歩み』続ける原動力。そして彼が「しないこと」を記します。それが4-5節。消極的誠実。『偽善者』は「隠す者」という言葉です。隠さないダビデとは対照的。動詞だけを拾うと『すわらず』『交わらず』『憎み』『すわることをしません』。一言で言えば「悪しき者と一緒にいない」。そして止まらないで『歩み』続けるのです。さらに、ダビデが「していること」を記します。それが6-8節。積極的誠実。『あなたの住まわれる家』『あなたの栄光のとどまる所』とは主の宮。ダビデも祭司のように宮を愛し、身をきよめ、礼拝し、賛美し、人々に主のみわざを伝えました。しかも『めぐって』(歩き回り)。やっぱり止まらない。「境界線」という概念があります。互いには適切な距離がある。境界線を越えても、境界線から引っ込み過ぎても相手を傷つけたり自分を隠してしまうことになる。ダビデは自分のすることしないことの線引きをしたのです。決して独りよがりではなく、主の愛を目当てに、主の真実をもって歩み続けるためです。

真の評価は主がくだす 9-12節

ダビデを取り巻く政治・権力の世界には様々な闇があったでしょう。『悪い企て』は「不貞、姦淫、偶像礼拝」などの意味もあります。政略結婚やハニートラップ、異教の国々との外交を指しているかもしれません。『まいない』は賄賂。『血を流す人々』は戦争での流血ではなく、政治的な暗殺や犯罪による殺人を指すようです。清濁入り交じる世界。誰が正しいのか、誰が隠し事をしてるのかわからない。そして正しい者も悪しき者も、ある意味同じように死んでいく。『どうか、わたしを罪びとと共に、わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください』。『いのち』は「魂」、『取り去らないでください』は「集めないでください」。つまり死後、私の魂を悪しき者と同じ所に集め、同じ扱いにしないで!と求めているのです。地上において、私たちは互いをなかなか見分けることができません。人の評価もいろいろ。本当に人を見分け、公正にさばかれるのは主だけ。『わたしは誠実に歩みます。わたしをあがない、わたしをあわれんでください。わたしの足は平らかな所に立っています。わたしは会衆の中で主をほめたたえましょう』。『平らかな所』は「公正」という言葉。真実な主と共に誠実に歩むなら、私たちは救い出され、新しい天と地という公正の大地にしっかり降り立つことができるのです。

主に私を正しく見分けていただくように、自分が自分をわきまえることができるように、主の前にも人の前にも自分のできることを明確にさせていただきましょう。

3月7日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第6章1-5節から、「自由の証し〜キリストの律法を全うする」と題してメッセージです。


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