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自由の証し〜キリストの律法を全うする

パウロの手紙は、概ね前半は理論的なことが、後半は実践的なことが記されます(イエス様も座学と実践の繰り返しで弟子たちを養われました)。ガラテヤ人への手紙は律法の問題を一つの軸に記されてきました。律法は神様からイスラエルの民に託されたものですが、その心を忘れてしまうと、自由を奪う牢獄と化してしまう。柔らかさも応用もない。そこでパウロは、手紙の前半で律法を託された神様、律法の役割、自由への解放者イエス様、そのイエス様に救われた私たちが、いかなるものかを記し、後半(5章から)では愛によって仕え合うことと、神様と私たちお互いの関係を「御霊の実」によって記しました。この第5章は「自由の行い」というテーマでメッセージしてきました。第6章はその行いの人々への影響力という意味で、「自由の証し」をテーマにお話ししましょう。3月7日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第6章1-5節から、「自由の証し〜キリストの律法を全うする」と題してメッセージです。

互に重荷を負い合う 1-2節

『罪過』とは気づかず行っている過ちです。「犯す」というより『陥っている』。『霊(御霊)の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、(罪過に陥っている)その人を正しなさい』。正す側が偉いわけではありません。「御霊の実」に柔和がある。御霊と共にあるから丁寧に向き合える。「正す」とは矯正することではなく、「整理する」「繕う」という言葉。何が問題なのか、丁寧に根気よく整理して、どう修復すればよいか一緒に考えるということです。私たちはいろんな社会背景や家族背景を背負って成長します。ものの見方、考え方、行動が形成されていきます。その中で、ストレスや理不尽やトラウマを経験することもある。意識せずに身につけてしまうクセや歪みや偏見もある。そこを共に丁寧に辿っていく。共に辿ることでお互いに気づきが与えられる。相手を正すことが自分を正すことにもなる。その地道な作業が『互に重荷を負い合』うことになる。この『重荷(バロス)』は「自分の能力を超える重すぎる荷」をいいます。『重荷を負い合』うとは、「重荷を脱がせる」とも訳せます。つまり、罪過に陥らせる過ぎたる荷がどのようなものか、一緒に整理し、その荷を下ろせるようにする。もしくは負える人が分担する。これは一人じゃできない。互いに重荷を負い合うことで、互いが癒され繕われ関係が強固にされる。『キリストの律法』は、マニュアル通りにできるものではありません。愛によって仕え合うことで全うできる。個別的で、具体的で、応用的な実践なのです。

自分自身の重荷を負う 3-5節

『自分の行いを検討して』みなさい、とパウロ。先ほども相手を正す作業の中で『自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい』とありました。「人の振り見てわが振り直せ」という言葉もあります。しかしそれだけではなく、自分自身をもっとよく見つめ、自分の言動を吟味しなさいということです。パウロは遠回しに『偽兄弟』や『割礼の者』を牽制しているのかもしれません。彼らは律法を行うことに熱心。そして相手がどうであれ律法を押しつけ、自分たちは完璧だと思っていた。牧師にもいろんな得手不得手があります。牧師もいろいろ。でも何でもできるよう求めていないか?牧師自身が。信徒が。牧師という職種に限らない。私たちは相手への要求は高く、完璧を求めやすくないか?自分はどうか?完璧か?完璧なら相手にも「自分の」完璧を押しつけるのか?『人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである』。ここにも『重荷』。しかし先ほどの「過ぎたる荷」とは違う「自分が負うにふさわしい荷」をいう言葉(フォルティオン)。イエス様は十字架という荷を負われました。私たちには負い切れない罪の重荷を、私たちから脱がせるためにご自身が負われた荷。それが十字架。自分の荷を負うことで多くの人の重荷を取り去る。これが『キリストの律法』。『キリストの律法』は「キリストの愛」と完全に一致する。このキリストを着た私やあなたにもふさわしい荷があるはずです。

『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから』(マタイによる福音書11:28-30)。理論から実践へ。イエス様の元から隣人の元へ。キリストの律法を全うするために用いていただきましょう。

3月14日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第6章-10節から、「自由の証し〜全ての良いものを分け合う」と題してメッセージです。


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