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すべてはお互いのもの

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以前こんなコマーシャルがありました。終業間近、社員のところに上司がやってきて「これコピーしておいて」と大量の書類を机に置いて、「あなたのためだから」と一言残して帰って行く。自分がしたくない仕事を部下に押しつけているだけなのですが部下もいやとは言えない、そんなコマーシャル。さて、10月16日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章18節〜23節から、「すべてはお互いのもの」という題でメッセージでした。パウロは「すべては、あなたがたのものである」と語ります。「すべてはあなたがたのためにある!」と言っているようなものです。先ほどの上司のように、パウロや神様は人に何か嫌なことを押しつけようとしているのか?いえいえ。パウロは神様が私たちにとって必要な全てを与えて下さっていることを語ってきました。それが神の力、神の知恵、キリストの救い、救いによって神の子とされた祝福、神の子が成長するための働き人…などです。今回は、神様が私たちに与えておられるものに対する私たちの態度を学びましょう。

知らないことを知らない自分、を知る

「だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい」。コリントの町の人々も、コリント教会の人々も、いろんな先生の弟子になったつもりで、先生自慢、知識自慢、自分自慢していました。しかしその生活はひどく混乱していました。今の世の中も知識があふれています。いろんな先生がテレビに顔を出しています。でもその知識が私を賢くし生活を豊かにしているか?逆に膨大な知識や先生に振り回されてないか?他人の主義主張でつぎはぎされた生活によって自分を失ってないか?私たちにとって必要な態度は「自分を欺かない」こと。知りもしないことを知っていると言ったり、知っているのに知らないふりをするのではなく、知っていることは知っている、知らないことは知らないとすることです。そして知っている以上に知らない自分を知り、神様が与えて下さったものに真摯に向き合い、謙虚に学び始めるのです。

神が与えられたものに学ぶ

「だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである」。世の中の膨大な知識は大切です。しかし世の中の知識はある意味、バラバラに切り刻まれ断片化されたものです。全てを意味あるものとしてデザインし、組み合わせ、世界や私たちを創造された神様を認めないからです。その本来の意味を神様に学ぼうとしないからです。私たちにとって必要な態度は、人間を誇るのではなく創造主なる神様を認め、神様が与えて下さったものの本来の意味や姿を学ぶことです。学歴がないと学べないのではありません。神様は誰もが学べるように聖書を与え、パウロのような教師、引いては現代の牧師をも与えておられます。本来の意味がわかってこそ世の中の知識もまた活きる。そして私たちの生活もまた自分のものらしく営むことができるのではないでしょうか。

神のものとされていることを喜ぶ

「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」。全部お前のものだと言っておいて、結局最後は全部神の所有物になるのか!と思われるでしょうか?先ほどの先生自慢、知識自慢していた人々は「私は○○先生のものだ!」と誇っていました。私は○○先生の弟子だ、○○先生に所属している、○○先生と関わりがある、ということがうれしいわけです。でも○○先生はその人たちにどれほどのことをしてくれたでしょうか?私たちは奴隷として「キリストのもの」になるのではありません。キリストは自分をなげうって私たちを罪から自由にして下さいました。こんなすばらしい「キリストのもの」にならなくして誰を誇るのでしょう?そのキリストも「神のもの」です。奴隷としてではなく神の御子として「神のもの」です。私も神の子とされました。私もまた神の子として「神のもの」なのです。人間的な誰のものになるよりも、全てを与えて神の子として養って下さる神様のものになることこそ、最も喜ぶべきことであり、誇るべきことであり、最も賢明な態度なのではないでしょうか?

全ては私たちのものであり神様のものでもある。全てはお互いのものなのです。

10月23日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第4章1節〜21節から、「わたしにならう者となりなさい」と題してメッセージです。


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