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幸い。この一事を求める

ガレージハウス。車やバイクを入れるだけではありません。趣味に没頭できるスペース。ネットで検索するといろんなガレージハウスを拝見できます。家主の頭の中が具現化した世界。年月をかけているだけあって情報量が半端なく奥深い。整然としていても混然としていても美しい。家主にとっての喜びと憩いと英気を養う場。引っ越しの多い私にとって憧れのスペース。ダビデも長い間、落ち着かない日々を歩んでいました。若い頃はアウトドアな羊飼い。やがて国のため戦うようになり、さらにサウルに負われるようになり、落ち着く場所はありませんでした。しかし彼は人とは違うものを見、求め、目指していました。それはどんなものか?4月11日(日)の礼拝は、詩篇27.1-14から、「幸い。この一事を求める」と題してメッセージです。

本当のわが家 27.4-6

『一つのことを願った』とは「最優先すべきこと」「これだけは外せない」「これがあれば事足りる」というほどのもの。それは『私のいのちの日の限り主の家に住むこと』です。『主の麗しさに目を注ぎその宮で思い巡らすため』です。そして『主の幕屋で喜びのいけにえをささげ主に歌いほめ歌』うのです。人間的に落ち着き場所のなかったダビデですが、彼は人が求めるような家や城や砦を求めず、主の家を求めました。そこには主がおられる。私たちは自然の雄大さや美しさに思わず「アメイジング!」と歓声の声を上げます。その創造主の家に住まう。とてつもなく大きく美しく究めがたいお方がおられる。この世界の全情報を超えるお方。全く飽きがこない。探求しても尽きない。常に新しい発見、感動の叫び、賛美がある。実はここが本当のわが家。帰るべき場所なのです。

本当に見るべき顔 27.7-10

次にダビデは主の御顔を求めます。旧約聖書では主の御顔が向けられる時、救いとさばきがあることを意味します。御顔を求めるなら救い。拒絶するならさばき。ダビデはいろんな裏切りにあいました。人の顔は信用できない。だから主の御顔を執拗に求めます。『私に隠さないでください』『あなたのしもべを怒って押しのけないでください』『見放さないでください。見捨てないでください』『私の父私の母が私を見捨てるときは主が私を取り上げてくださいます』。ダビデの両親がダビデを見捨てたという聖書記事はありません。ダビデはサウルからの逃避行の時、親も共に行動しました。「たとえ両親が私を見捨てても」というようなところ。今の世の中そういうことはないか。立派な家やマンションに住んでいても、そこは本当に安心できるわが家か。本当に安心し、信頼し合い、喜び合うためには、まず主の家に住み、主の御顔を仰ぐ必要があるのです。

本当に辿るべき道 27.11-13

家、御顔、今度は道です。『主よ、あなたの道を私に教えてください。…私を平らかな道に導いてください』。「生活」や「人生」を意味する言葉。主の家に続く道。『もしも私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったら』は他訳では『私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じます』とあります。この『生ける者の地』が『主の家』でもある。イスラエルは山岳地帯。森もあれば荒野もある。ダビデはそんな中を羊を導き、サウルから逃れ、敵と戦いました。どこに敵がいるかわからない、道なき道を巡る、先の見えない毎日。だから見通しのよい、『生ける者の地』に続く平らかな道を求めました。私たちの生活にも、その積み重ねである人生にも、躓きや妨げや誘惑するもの、脇道や行き止まりや山や谷があります。だからこそ主の道を常に求める。主の家からこの世界へ、この世界から主の家へ、しっかり辿るべき本当の道を求めるのです。

ダビデや私たちの創造主の家はどんなでしょうか。家というと屋根と壁で覆われているイメージですが、そんなイメージにおさまるわけがありません。大きな愛と知恵にあふれた大きな主がおられる世界。今は私たちの目には見えませんが、『いのちの日の限り』主の前に共に集い、主を仰ぎ、主の道を教えていただきましょう。この一事に励み(楽しみ)ましょう。

4月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.30-44から、「あわれみ深い主の心」と題してメッセージです。


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