カテゴリー

自由の誇り-新創造のための十字架

ガラテヤ人への手紙もついに最後。『ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています』とパウロ。代筆者がいたようですが、ここでパウロ自ら筆を執ります。パウロは目が悪かったのではないかと思われますが、最後にこれだけは言っておきたい!と渾身の思いを込めて、大きな字で記します。『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません』。イエス様の十字架こそ誇り!これだけは忘れるな!この大きな字を、十字架を、目にも心にも焼きつけろ!…ということで、5月2日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙6.11-18から、「自由の誇り-新創造のための十字架」と題してメッセージです。

この世に死ぬための十字架 6.12-14

今までも登場していた『肉において外見を良くしたい者たち』『割礼を受けている者たち』は、ユダヤ人の迫害を恐れていました。彼らが律法厳守を主張し、割礼を受けさせるのに熱心だったのは、実は恐れのため。ユダヤ人はイエス様を十字架につけて殺し、弟子や教会にも迫害の手を伸ばしていました。だから「私たちはこんなに律法に励んでいます!すごいでしょ」と誇って見せていたのです。迫害が嫌だったから外見を取り繕っていた。つまり中身は関係ない。パウロはそれを『自分自身では律法を守っていない』と言うのです。中身のない、心許ない誇りです。一方パウロは迫害を十分承知していました。なぜなら彼自身元迫害者だから。しかし迫害のあるなしは関係ない。殺しても圧倒的によみがえったイエス様。その力の印が十字架。『この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました』。私はイエス様の十字架にピッタリ一つ。この世に対して死んだも同じ。裏を返せば、復活の側、本当の命の側にいる。迫害されても、殺されても、ある意味ダメージがない。この世に対して自由(フリー)なのです。歴史を振り返ると、恐れる者こそ無力なクリスチャンを迫害します。それは本物の王であるイエス様が、私たちとピッタリ一つになってくださっているからではないでしょうか。

新創造のための十字架 6.15-18

「この世に死ぬための十字架」は消極的な十字架。今度は積極的な十字架。それが「新創造のための十字架」。私は十字架によってこの世に対して死んでいる。「裏」を返せばイエス様と共に生きている。実はこっちが「表」。『この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように』。表が基準。イエス様に従って生活する、新しい生活様式の中で、私の新創造は進んでいくのです。それは個人にとどまりません。『神のイスラエル』を形成します。今のイスラエルではなく新しいイスラエル。ユダヤ人であろうと日本人であろうと、新しいイスラエルを形成し、新しい天と地に住まう。そこまで至らせる新創造!『これからは、だれも私を煩わせないようにしてください』とパウロ。時に檄を飛ばし、時にやさしく呼びかけ、『またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする』と言っていたのに結局迷惑なんかい!その理由は『この身にイエスの焼き印を帯びているのですから』。当時の奴隷は主人の所有物の証しとして、焼き印や入れ墨を入れられました。パウロに実際焼き印があったか?イエス様は十字架を負われた前後、たくさんの傷も負われました。パウロにも病があり、迫害の傷があり、いくつもの教会が直面する問題を背負っていた。それをイエス様の十字架と重ねていた。パウロは何を言いたいのか?「自立しなさい」ということです。いつまでも手のかかる教会ではなく、逆にパウロを助け、他の教会を助けることのできる、自立した教会になりなさい。パウロではなく、十字架による圧倒的な新創造の力が、あなたがたにはピッタリ備わっているのだからと。

「誇りをもって生きる」とは、何者にも脅かされず、自分を犠牲にしてでも周りを助ける、心強い自立した人や強い生き方をイメージします。映画を見ていると「父さんはボクの誇りだ」「私は家族を誇りに思う」という台詞を聞くことがあります。誇りに思えるものがあるから、がんばれる。困難を乗り越えられる。立ちあがり前進できる。そんな誇りが私たちにはあるか?イエス様の十字架が誇りとなりますように。これこそ不屈の力、新創造の力なのです。

5月9日(日)の礼拝は、サムエル記第一1.1-18から、「ハンナの祈り」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved