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幸い。力を与える主の声

危機にあるとき、状況が悪化する度に、リーダーに力強いメッセージが求められます。そしてメッセージのあるなしや、その内容の善し悪しを評価します。またリーダーの言葉を求めつつも、私たちは様々な情報を元に主張し合い、振り子が振れるような行動に出ることもあります。私たちは危機かそうでないかにかかわらず、日々どんな言葉や情報を根拠に、支えに、励みに生活しているでしょうか。ある意味、状況や時の声に振りまわされない生き方や生き様が問われているのではないでしょうか。時の声に聞くなと言っているのではありません。時の声を聞き分け、自分をわきまえることが、何より大切ではないでしょうか。ということで、6月6日(日)の礼拝は、詩篇29.1-11から、「幸い。力を与える主の声」と題してメッセージです。

私たちは力をいただいている 29.1-2,11

『力ある者の子らよ』とあります。新改訳2017の欄外には「神の子ら」とあります。御使いを意味するという解釈もありますが、人間と解釈して差し支えありません。創世記で、神様に向いて聞いて従うセツの子孫が『神の子ら』だとお話ししました。そのセツの子どもの名前がエノシュでした。この名前には「弱い」という意味がありました。自分は弱い。神様なしには生きていけない。だから神様に向いて聞いて従う。そういう謙遜な自覚があった。それが『神の子ら』。しかしダビデはそういう「神の子ら」に『力ある者の子らよ』と呼びかけています。私たちは「こんな小さな者ですが」「こんな弱い者を」「こんな取るに足りない者を」と祈ることがあります。その謙遜な自覚も大切です。しかしそれだけでは半分。弱い私たちなのですが、実は力が与えられているのです。

主の声に力がある 29.3-9

『主の声は』と何度も出てきます。ここで描かれるのは驚異の自然活動です。最近は森林破壊が進んで、巨木も稀になっていますが、当時まだまだ巨木がたくさんありました。また『若い野牛』は、英欽定訳で「ユニコーン」。絶滅した巨大な動物とも考えられます。何を言いたいかというと、巨大な森林や動物でさえ、簡単にひっくり返る自然界の力がいかに大きいか、延いてはその自然界を創造された主の声の力がいかに大きいか、ということです。かつて江戸の人々は、繰り返される地震・噴火・大火を教訓に、家・町・組織・生活様式に至るまで再デザインし、シンプルライフの町民文化を開花させました。その知恵と力の変換力には脱帽です。主の声にこそ知恵と力がある。その声に従う私たちにも知恵と力の変換力がある!8節の『揺さぶる』は「生み出す」という言葉。主の声に従う私たちには生み出す力があるのです。

主の声に従う者に救いがある 29.10-11

『主は大洪水の前から御座についておられる』。神様に向いて聞いて従っていたはずのセツの子孫が、神様に向かず聞かず従わないカインの子孫と混じり合い『地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちて』いました。『暴虐が満ちていた』は「破滅していた」です。大洪水が破滅をもたらしたのではありません。人間がすでに世界を破滅させていたのです。主は何とか人も世界も救おうと大洪水と箱舟をセットで用意されたのです。大洪水だけならなんとも恐ろしい強大な力。でも箱舟があった。箱舟は沈まなかった。そして箱舟は主の指示で、ノアが造ったのです。知恵と力の救いへの変換力!しかし主の声に従ったのはノアの家族のみ。今の時代はどうでしょうか?

イエス様こそ人間の弱さを身にまとわれた、真の神の子。そして自然界の創造者にして支配者。イエス様は十字架によって全人類の救いを完成されました。なんという知恵と力の変換力!荒波にもまれる弟子たちに『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と手を差し伸べられたイエス様は、私たちにも同じように声をかけ、手を差し伸べておられます。今の世界は水ではなく、火で終わりを迎えます。しかしイエス様の声に従えば、新しい復活の体と共に、新しい天と地にしっかり立つことができる!これまたなんという知恵と力の変換力!私たちは主の声に従い続け、状況がどうであれ、手分けし協力して、主の力を身近な人の平安と祝福のために用いてまいりましょう。

6月13日(日)の礼拝は、詩篇30.1-12から、「幸い。揺るがぬ恩寵のうちに」と題してメッセージです。


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