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幸い。揺るがぬ恩寵のうちに

6月13日(日)の礼拝は、詩篇30.1-12から「幸い。揺るがぬ恩寵のうちに」という題でメッセージです。表題は『賛歌。家をささげる歌。ダビデによる』。新築の家を主に感謝する歌か?内容は新築の家とは関係なさそうです。表題は、詩篇がまとめられる中でつけられていったようです。今回の表題にはどんな背景があるのか?紀元前165年、ギリシャの配下にあった神殿をユダヤ人が奪還し、改めて主に献げたときにこの歌を賛美したようです。ソロモンによって第一神殿が建てられますが、やがて破壊されます。ゼルバベルによって第二神殿が再建されますが、やがてギリシャの手に落ちていた。そして回復した。神殿に限らず、イスラエルの歴史は危機と回復の連続です。そういう危機からの回復を感謝する歌。それが30篇なのです。

私たちにも山や谷はある 30.1-7

ここから、ダビデには敵や病み患ったこと、死に直面したことがあったことがわかります。神の御怒りを受けていると感じたこともありました。小さな頃から主を信じ、忠実であろうとしたダビデ。そんな彼にも危機的な「谷」は幾度もありました。しかし「山」と思えることもありました。平穏なとき、富み栄えるときを迎えたことがわかります。しかしそんな時、彼は『私は決して揺るがされない』と思いました。順風満帆の時、自分が無敵になったような感覚です。自分がそびえ立つ山のようになった感覚です。「健康傲慢」という言葉を聞いたことがあります。「自分がこれだけ努力しているから健康だ」と思い、健康でない人を「努力が足りない」とさばいてしまうことです。しかしどんなに健康な人も衰えます。災害や事故で不自由になることもあります。生まれつき障害や難病を背負っている人もいます。私たちは、山であれば天狗になったり、谷であれば不平をならしたりしていないでしょうか。ダビデは「山」傲慢になっているとき、主の御顔が見えなくなるのを感じました。主に向いて聞いて従っていたはずが、いつの間にか自分を見ていたからです。彼は『おじ惑いました』。自分は山でも何でもない。その心許ない感覚は、敵や病や死の恐れよりも大きいものでした。主の恩寵のうちにあってこその自分だと気づいたのです。

私たちは揺るがぬ恩寵のうちに 30.5,7

ここに『恩寵』という言葉があります。「喜び」「好意」「願い」「いつくしみ」といった意味もあります。この言葉を思い巡らすに、『恵み』という言葉が思い浮かびます。主の契約に基づく愛を現す言葉。主の私たちへの愛は、とても理性的な行動。冷静な契約履行。と共に、愛は感情でもあり、温かい手や優しいまなざしがあります。こちらの面を現すのが『恩寵』ではないか?私には子や孫がいますが、今時はSNSで彼らの写真を送ってくれます。それを見ている自分の表情にハッとさせられます。どんなに眉間にしわを寄せて仕事をしていても、写真を見るとニッコリ!彼らが愛おしくてたまらない!それは彼らが大きくなっても変わらない!かつて、そんな子どもの膨大な写真データを失ったことがありました。何とか復旧しようと手を尽くしましたがかなわず、悲しみました。実際に本人たちを失ったらどんなに嘆き悲しむことか。主の私たちへの恩寵はなおさらです。私たち1人1人を丹精込めて創造し、養い、罪と滅びから救い出し、永遠に共にいたいと願っておられます。『私が墓(滅びの穴)に下っても私の血に何の益があるでしょうか』とダビデは記しますが、そんなこと主は痛いほどわかっている!私たちを決して失いたくない!だから十字架にかかって、私たちの身代わりに、滅びの穴に下る苦しみを味わわれた。私たちに救いを用意するために。私たちの益だけを考えておられる。このあふれるばかりの恩寵は、決して揺るがないのです。

ダビデは10節から再び激しく主を求めます。これぞ彼本来の姿。そして私たちの姿。山であろうが谷であろうが、主の揺るがぬ恩寵のうちに。主の恩寵が私を回復する。嘆きが踊りに。粗布が喜びに。そして私のうちから『ほめ歌』が湧き上がる。私たちは、嘆き悲しむ隣人の痛みに寄り添い、自分だけでなく隣人の益のためにも、主を賛美しつつ、主の恩寵を分かち合ってまいりましょう。主は、主と同じ栄光の復活と新天新地に、共々に与らせてくださいます。回復にまさる、大いなる幸いではないでしょうか。

6月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.53-7.15から、「愛する心」と題してメッセージです。


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