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愛する心

心が硬い、柔らかい。心は見えたり触れたりできないはずです。でも見てわかる。表現や動作に現れる。イヤなことをしなければならないとき、苦手な人と会わなければならないとき、嘘をついているとき、激しく口撃されているとき、心をクローズ!自分が自分じゃないみたい。逆に好きなことをしているとき、おいしいものを食べているとき、自分を認めてくれる人と一緒のとき、心がオープン!何の力みも壁もなく自分らしさ満開。そんなことないでしょうか。イエス様の弟子たちも度々心がカッチカチになりました。でももっとガッチガチの人がいました。ということで6月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.53-7.15から、「愛する心」と題してメッセージでした。

愛さない心が支配していた

7.1『さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった』。律法学者は元々エルサレム神殿の祭司。祭司から律法を教える人々が起こります。いくつかの派があって最も多かったのがパリサイ派。「分離する」という意味があり「汚れ(けがれ)」からの分離に厳格でした。やがて地方の会堂礼拝が行われるようになり、律法を人々に教えるため、パリサイ派律法学者の元で学び派遣されたのがパリサイ人。今回、中央からパリサイ人の上司がやって来た、という感じ。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか』と彼らはイエス様に質問します。しかしイエス様は『(あなたがたは)見事に神の戒め(律法)をないがしろにしている』と言われます。律法学者が律法をないがしろ?彼らは『昔の人の言い伝え』を遵守し、汚れに対してチョー潔癖でした。しかし手を洗い体をきよめるのは元々祭司のつとめのため。しかし彼らは律法を拡大解釈し庶民に押しつけるようになりました。そういう『昔の人の言い伝え』は600ほどにも上り、庶民は『堅く守って』いました。この言葉は「支配されていた」という言葉です。イエス様は『コルバン』という献げものを例に挙げます。親が老いると子が養います。しかし親が必要な物でも「これは神への献げものだ」と誓うと親に渡す必要はなくなる、というもの。当時、親子げんかをしたとき、子が腹いせにこの誓いを使ったようです。これは誓いゆえに撤回できません。では『神の戒め』は何と言っているか?『あなたの父と母を敬え』『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』。けんかして親を困らせている場合じゃねー!律法学者は「神への献げもの」というもっともらしい理由をつけて、『神の戒め』を否定していました。そして親子関係をないがしろにしても平気でした。彼らの愛さない心が、『神の戒め』を否定し、社会全体をも支配していたのです。

愛する心が支配を取り戻す

6.56『村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒された』。律法学者たちはそれが我慢なりませんでした。人々が元気になっても喜ばず、イエス様を批難するばかり。なぜならこういう人たちにふれると汚れ(けがれ)るからです。手や体を洗わないどころか、汚れにあえてさわるヤバいやつ!というわけです。しかも安息日にも癒している。それは医療行為。安息日に仕事をして、社会秩序を壊すヤバいやつ!というわけです。「けがれ」は「きたない」とは違うし「きよい」は「きれい」とも違います。汚れは「気枯れ」、きよいは「気良い」とも書きます。その人にあるべき命が枯れかけているなら助けたい。命が満ちた状態に戻してあげたい。それがイエス様。手や体を洗うのは清潔面では大切ですが、その人のうちに命が満ちているかいないかとは別問題。しかし律法学者は外側だけをきれいにし、自分を誇り、社会的弱者を見下し、指一本触れようとしなかった。もっともらしい理由をつけて!それは彼らがきよいからではなく、彼らも気枯れていく存在でしかないからです。なのに!「神の戒め」と同じように「神の子」も否定する!でもイエス様は命があふれている。あふれた命を私たちに注いでくださる。さわって気枯れるのではなく圧倒的に気良くできる。上からではなく同じ目線になって。人に押しつけるのではなく優しく触れて。善し悪しではなくそのままを認めて。「君は君で素晴らしい」。愛する心が私を生きかえらせる。我を取り戻させる。私らしく活きられるのです。

愛さない心の支配は、現代の社会や文化や伝統の中にも、また身近な学校や職場や家族関係にも姿形を変えて潜んでいます。「形骸化する」と言いますが、本来の意味が失われ、大事な中身がなくなり、外側だけ維持しようとする。それが当たり前になり、ついてこられない人や異を唱える人は排除されていく。イエス様は、そんなガッチガチでカッラカラになりやすい私たちの心に、愛を満たすために来られました。その愛の心は行動となってほとばしり出る。それが「神の子イエス・キリストの福音の支配」なのです。

6月27日(日)の礼拝は、使徒の働き16.16-34から、「主イエスを信じなさい」と題してメッセージです。


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