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赦すこと−わたしたちにできること−

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「主の祈り」の中に「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という文言があります。私はここを祈るとき二つの抵抗を感じました。一つは、「赦すから赦してください」ではなく「赦されたから赦します」なのでは?二つ目は、私に罪を犯す人を私は本当に赦せるか?赦しがたい事件が頻発しています。もし自分が被害者になったら?家族が犠牲になったら?赦せるか?今ほど赦すことが難しい時代はないのではないかと思います。しかし今ほど真の赦しを必要としている時代もないと思うのです。ということで10月30日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章1節〜35節から、「赦すこと−わたしたちにできること−」と題してメッセージでした。

罪の自覚があるところに赦しがある

18章には一つのテーマが流れています。それは「その人の救い」です。その前半部分には二つの内容が含まれています。一つ目は「天国で誰が一番偉いか」。弟子たちの質問にイエス様は「心をいれかえて幼な子のようになる人」「幼な子のように身を低くする人」「わたしを信ずるこれらの小さい者」だと言われます。そしてそのような人をつまずかせる人は「大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる」「あなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命にいる方がよい」と言われました。イエス様は残酷ですか?前半部分の二つ目は罪を犯した兄弟(クリスチャン)への対応です。クリスチャンは罪を犯す必要はありませんが犯すことはできます。しかしそれは「心をいれかえた」「身を低くする」イエス様を信じる小さい者をつまずかせることになります。罪を犯すクリスチャン自ら地獄の火に身を投ずることになります。クリスチャンは地獄に行く必要はなくなりましたが行くことはできる。しかし放ってはおけません。まずは一対一で忠告する。それがダメなら二三人で、それでもダメなら教会全体で。それでもダメなら「異邦人または取税人同様に扱」う。教会は冷たいですか?イエス様も教会も残酷でも冷酷でもありません。18章のテーマは「その人の救い」です。ここで大事なのが罪の自覚。罪の自覚なくして、心を入れかえることも、身を低くすることも、イエス様を信じることも、忠告されて罪を受け入れることも困難です。罪の自覚なくして救いも赦しもないのです。イエス様の厳しい言葉も、教会の最後の対応も、その人を滅ぼすためではなく、その人の救いのために、どれほどの罪があるか、自覚を促しているのです。

赦しのあるところに自由がある

18章の後半部分。ペテロが質問します。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。当時のユダヤ教では七は完全数、そして「三回まで、兄弟に罪の赦しを請うことができる」と言われていました。ペテロは質問と共に、赦しについて完璧な答えを添えたつもりでした。しかしイエス様は「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。490回赦せと言うのではなく何度でも赦せと言うことです。そこでたとえ話です。一万タラント負債のあるしもべが主人の前で「お待ちください!返します!」と懇願しました。その懇願する姿を見て主人はしもべを赦しました。しもべが外へ出ると百デナリ(一万タラントの60万分の1)貸していた仲間に出会います。しもべは仲間の首を絞めて「借金返せ!」。仲間は「待ってくれ!返すから!」と懇願しますが、しもべは仲間を獄に入れてしまいます。その話を聞いた主人は立腹してしもべを獄に入れました。しもべは自分の負債で自由を失ったのではなく、仲間を赦さないことで自由を失いました。私たちも同じようなことをしていないか?私が相手を「ゆるせない」と言うとき、相手の罪を私がぎゅっと握っているようなもの。「腹が立つ!憎らしい!」となると、ますます相手の罪に私が縛られていくのです。自分の罪も処理できないのに。罪はイエス様が十字架で処理してくださった。私は罪を自覚し悔い改めただけ。ならば相手も罪を自覚し悔い改めてくれればそれでいいのです。では罪の自覚も悔い改めもないなら?赦すことは成立しませんが赦す準備は怠らない。どうしてそれが罪なのか検証しておく。今まで相手とどのように関わってきたか、これからどう関わるか、考えて行動を変える。そのためにどんな助けが必要か周囲の人に表明する。そして相手の祝福を祈る。相手の救いのために、私が相手の罪から自由でいられるために。

「主の祈り」の先ほどの文言には別の訳があります。「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」。赦されたから赦します。赦すから赦してください。両方あり。赦し、赦され、赦され、赦す。憎しみや復讐の連鎖ではなく赦しの連鎖。実は「主の祈り」の中で、私たちの唯一の行いとして記されているのが「赦すこと」なのです。赦すことが神様の御前にどれほど大きな事かわかりませんか?私たちは、赦される喜びと共に、赦す喜びをますます体験したいものです。

11月6日(日)の礼拝は、創世記第6章9節〜22節から、「神の言葉に従い抜く」と題してメッセージです。


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