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神のかたちの営み

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祝福とは、

見えない神様の命と支配と愛がこの世界に満ちること。

そのために見える神のかたちである私たちが創造された。

土(物質)と命の息(霊)で。

聖書は唯物でも唯心でもない。

両方を大切にする。

それはまたいつかお話しすることがあるでしょう。

では、具体的にどんな営みで祝福を満たすのか?

ということで、

5月1日(日)の礼拝は、創世記2章1節〜25節から、「神のかたちの営み」と題してメッセージでした。

祝福は、私たちが自然に仕えることで満ちていく

神様はまず、私たちが生きるために必要十分な食物を備えてくださいました。そして、エデンの園を耕し守る仕事を与えられました。まず食べるものがあって、次に仕事があった。そして狩猟生活ではなく、農耕があった。さらにはこの「耕す」という言葉は「仕える」という言葉。では今の世の中はどうか?まず仕事があって食べられる。歴史は狩猟生活から農耕生活へかわったと教えられる。自然を支配すると言えば、自分たちの都合のいいように造り変えるか破壊するか。どうです?正反対じゃないですか?本来、地を従える、支配するとは、自然に仕えて、なお自然を豊かにすること。日本語の「仕事」も、仕える事って書きますよね。

祝福は、私たちが生き物を捉え生かすことで満ちていく

神様は人に生き物の名前をつけさせられました。人は神様が文句のつけようのない、その生き物にぴったりの名前をつけていきました。今でも人は、名前のないものが発見されると名前をつけていきます。名前がないと姿形は表現できてもどうにも落ち着きません。「命名する」という言葉もあります。名前をつけることはまさに命を吹き込む作業とも言える。では今の世の中はどうか?人の食欲のため、装飾のため、金のため、乱獲されて絶滅した生き物がある。今でも多くの生き物が絶滅の危機に瀕している。生物多様性は失われてきている。新種発見といっても今まで人の目に触れなかっただけ。いっそのこと触れなかった方が助かったかもしれない。どうです?正反対じゃないですか?本来、生き物を治める、支配するとは、神様が命を吹き込まれた生き物を、人がなおよく捉え、生かし、増やすこと。

祝福は、私たちの愛の協力で満ちていく

神様は人(男)にふさわしい助け手として女を造り、連れてこられました。人は女を見ると「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と喜びの声を上げました。「骨肉」の愛です。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。最初の人に両親がいたわけではありません。完成体として造られました。独り立ちできる成人です。「妻と結び合い、一体となる」とは、性的な結合も言いますが、より強い契約としての結合を言います。二枚の紙をのりで貼り合わせて、もう一度はがそうとすればどうなるか?びりびりに破れます。それほど強い契約関係。また夫婦は両腕のような関係です。一つ体。同じ高さ。支配関係ではなく協力関係。両手は同じかたち。でも左右と役割は違う。その協力関係で様々なものを生み出す。新しい命を。お互いや自然や生き物をますます生かす営みを。では今の世の中はどうか?男子や女子の前に草食や肉食という言葉がつく。婚活も盛ん。伴侶は自分で獲得するもの。セックスは結婚以外で。「骨肉」と言えば争い。結婚の誓約は?契約社会と言われながら契約を守ることをどこで学べばいい?不倫、虐待、遺棄、殺人。隷属的支配関係。生み出しているものは一体なにか?どうですか?正反対じゃないですか?本来、結婚は祝福を広げるためにありました。「骨肉」の愛があったから、お互いを、生き物を、自然を大切にし、よく治めることができたのです。

確かに今も、私たち人類は命を満たそうと、よりよく治めようと、努力奮闘しています。しかしその努力奮闘に抗う結果を目の当たりにしていないでしょうか?

最初の人は裸でしたが恥ずかしくありませんでした。それは無知だったから、幼い知能レベルだったからではありません。神様とつながっていたからです。神様の命と支配(知恵)と愛に包まれて、内側も外側も満ち満ちていたからです。だから祝福を分かち合うことができた。広げることができた。これを人はどのように失い、失ったらどのような行動に出たか?またどうしてかくも正反対な営みがなされるようになったのか?

それは創世記3章以降に記されています。

この続きは7月に。

次週5月8日は母の日礼拝。

箴言31章10節〜31節から、「家庭の営みの基本」と題してメッセージです。


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