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人を本当に汚すもの

「宗教」という言葉を聞いてどんな印象を抱くでしょうか?明治維新前後、外交で使われる「religion」の訳語として仏教の「宗教」という言葉が使われるようになりました。今では概ね「人間や自然界の力を越える存在(時に神と表現する)を中心とする観念で、その観念に基づく教義、儀礼、施設、組織をそなえた社会集団」と理解されているのではないでしょうか。これまでマルコの福音書からイエス様を見てきました。そしてイエス様に異を唱え、反対し、イエス様を憎む人々も見てきました。パリサイ人や律法学者です。彼らも同じ聖書と神様を信じる人たち。民衆の教師。でもイエス様と彼らは全然違う。なんで?ということで、7月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.17-23から、「人を本当に汚すもの」と題してメッセージです。

外側が問題ではない 7.17-19

パリサイ人や律法学者は、外出したときや食事のとき、汚(けが)れたものに触れなかったか、律法に違反していないか、細心の注意を払いました。食材にも厳格なルールがありました。生活の隅々にまで、体や手を洗う「きよめ」の儀式を怠りませんでした。だからイエス様の弟子たちが手を洗わず食事をしているのを批難した。そのイエス様の返答が『みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです』でした。しかし、彼らにはピンとこなかった。さらに弟子たちもピンとこなかった。それでイエス様に聞き直したやりとりが17-19節。私という存在は霊(内側)と体(外側)で構成されています。どちらがコアかというと霊。体は先に朽ちますが、霊は残るからです。パリサイ人や律法学者がこだわったのは外側が「きれい」かどうかです。清潔も大事です。しかし体をきれいにすることや体を維持する食事は、霊をどうのこうのするものではない。その人が「汚れ」ているか「きよい」かとは別問題なのです。とはいえ体は大事です。神様は私たちの体の維持のために、豊かな自然を創造してくださったのです。当時、今のような合成保存料や添加物、環境汚染はありませんでした。ですから自然の恵みを感謝し、土地のもの、旬のものをしっかりいただけばよかった。「汚れ」は外側(食材や手を洗ったか、触れたかなど)の問題ではなく、実は内側の問題だったのです。

内側が問題 7.20-23

ここにはスゴイ言葉が並んでいます。これらは肛門から出てくるようなものじゃありません。体がきよいか汚(けが)れているか、はたまたきれいか汚(よご)れているかとは違う話です。本当に問題なのは私たちの霊。そして霊と体をつなぐ心の問題。いろんな言葉が並んでいますが、実は同じようなことを示しています。それは「奪う」ということです。神様がそれぞれに相応しく与えられているものを、手前勝手に奪う、手段を選ばず奪う、わきまえず奪う。奪うことで奪われた者が傷つく。奪われた者たちの関係やコミュニティが破壊される。神様はそれぞれに相応しいピッタリなものを与えたい。しかし奪う者は、神様に求めないで、神様から受けとらないで、人から奪い続けるのです。しかし満足がない。際限がない。なぜか?それは自分のものじゃないからです。胃袋ではなく霊が満たされない。すると心に人から奪う欲求が溢れ、やがて体を使う行動となる。それが人を汚すのです。気枯れるだけでなく怪我させる!体も心も霊も傷つけるのです。レイプは「魂の殺人」とまで言うではないですか。イエス様の言葉はパリサイ人や律法学者とのやりとりに端を発しています。彼らは「俺たちはそんな人間じゃない!」と激怒するかもしれません。しかし彼らは人の外側にレッテルを貼り、社会を分断し、自分たちはお高くとまり、人を汚し(怪我させ)たままで、平気だったのです。今のコロナ禍、感染症が確かに大きな問題です。しかしそれに勝るとも劣らず、人を本当に傷つけるものが、この機に乗じて噴出していないでしょうか。

パリサイ人や律法学者がなぜこうもイエス様と違うのか?内側にあるべきものがないから。そしてイエス様を拒否ってるから。「religion」の元々の意味は「再びつながる」。神様につながりなおす。人となってくださった神、イエス様につながりなおす。そして人と人とがつながりなおす。イエス様こそが私たちの霊的満足を満たすお方。気良くできるお方。回復と成長をもたらすお方。誤解を恐れず言うなら、宗教の要素である教義、儀礼、施設、組織はなくてもいい(あってもいいけどなくてもいい)。でも全ての人に「イエス様につながる」というreligionは必要。イエス様は喜んで私たちの心になってくださる。奪うのではなく与える人へ。汚すのではなく癒す人へ。分断ではなくつなげる人へ。私たちに相応しくピッタリな主のわざを分かち合えるようになるのです。

7月25日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.13-14から、「新しい共同体~聖霊が保証」と題してメッセージです。


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