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幸い。御手に包まれる

8月1日(日)の礼拝は、詩篇31.1-24から、「幸い。御手に包まれる」と題してメッセージです。詩篇は11ぐらいのジャンルに分類されます。詩篇31篇は「嘆きの詩篇」というジャンル。これまでもダビデは、たくさんの嘆き叫び訴えを詩にしてきました。幼いときから主を信じ、王にまでなった人ですが、悩みが尽きません。「神様信じてるのになんで悩みが尽きないの?」「御利益なんてないじゃん」と言われそうです。しかし聖書は、「私たちが苦難に遭うことは、選択科目ではなく、必須科目だ」ということを教えます。選択科目でさえ御免被りたいのに必須科目!なんで?今日はダビデの三つの告白から学びましょう。

「あなたこそ私の砦です」 31.1-4,19-22

主に王として選ばれたのに主に従わなくなったサウル。新しく選ばれたダビデを認めず殺そうとしました。ダビデは刃向かわず逃げに逃げ、敵民族ペリシテの王アキシュに身を寄せることもありました。そしてサウルにもアキシュにも悟られないように外敵から国土を守るという、チョー難しいミッションを続けていました。あるとき、ダビデと部下たちの家族が住んでいた町が焼き討ちに遭い、家族が誘拐される事件がおこります。部下たちはストレス爆発!ダビデを殺そうとまで言い出します。その時ダビデは『自分の神、主によって奮い立った』のです。そして苦境を乗り越えていきました。ダビデは主を『砦』『力の岩』『強い岩』『巌』『力』と表現します。主という砦には『いつくしみ』があふれるほど備蓄され、主はダビデを『ひそかにかくまい』『隠場に隠され』『奇しい恵み』で養ってくださると告白します。私たちが住むこの世界では、どんなに頑丈な家やシェルターや要塞も人を守りきることはできません。知恵者であっても金持ちであっても権力者であっても。ダビデはそれをたくさん見て知って経験し、主という砦しかない、と学んだのです。

「私の霊を御手にゆだねます」 31.5-13

ダビデは『私の霊』を砦である『主の御手』にゆだねました。では霊以外は?『目』も『たましいも』『からだも』『衰え果て』『いのちは尽き』『年は果て』『力は弱まり』『骨は衰え』ました。完全な底付き状態。『霊』『たましい』『いのち』どう違う?私という存在は霊と体で構成されます。体に主の『息(霊)』が吹き入れられ『人は生きるもの』となりました。『たましい』は体を使っての経験で作られていく霊なる私です。『いのち』は体が霊と共に生きていることを言います。霊も体の影響を受けます。「食べる」ことよりも「経験」に影響を受ける。その辺の細かいことは忘れても構いません。とにかく私のコアである霊を主の御手に包んでもらう。でもダビデを嘲笑う人々にはそれが見えない。理解できない。だからダビデのヘロヘロ状態が『壊れた器のように』しか見えず、敵や身内の裏切りや造反という『恐怖が取り囲んでいる』とバズるのです。でもダビデをここまで追い込んだのは「御利益ないやん」と嘲笑う彼らです。主ではありません。ダビデは追い込まれるほど、彼らに牙をむくのではなく、力を抜いて主の御手に委ねることを学んだのです。

「あなたこそ私の神です」 31.14-18

ダビデは状況や状態が悪くなるほど、「神などあるものか!もう信じない」となるのではなく、『あなたこそ私の神です』とますます確信を持ち大胆に告白します。さらに『御顔をしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください』。『照り輝かせ』とは「火を点じて」とも訳せます。焚き火の火起こしは、小さな火種を麻紐や木くずに落として、両手に包むようにしてそっと息を吹きかけるところから始めます。主は御手にあるダビデに、そっと命の息を吹きかけられる。彼の霊と体にその救いが広がっていく。決して枯れ果てない。輝きを取り戻し、輝きは大きくなる。ダビデは生涯の経験からそれを学びました。さて。私たちは彼以上に『救い』の『恵み』を知っています。イエス様の救いです。イエス様の十字架上最後の言葉が『私の霊をあなたの御手にゆだねます』です。イエス様は同胞からダビデ以上の仕打ちを受けます。十字架にかかって『わたしは渇く』とも言われました。干からび果てた状態です。同胞は容赦なく「自分を救え!神の子なんだろう!」と嘲笑います。そしてイエス様は息を引き取られる。ガチの絶体絶命。ところが3日目に圧倒的な光に包まれて復活されました。『あなたの恵みを私は楽しみ喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり私のたましいの苦しみをご存じです』。『ご覧になり』は「よく理解して」。『ご存じです』は「体験して知ってくださっている」。主はダビデや私たちが味わうあらゆる苦難を、身をもって体験しよく理解してくださっています。それだけではなく、苦難からの救いを身をもって私たちに提供してくださったのです。ダビデは生前この救いを知りませんでした。イエス様がよみに降られた時、ダビデはこの救いに与ったのです。でも、私たちは今、この恵みに与っている!

苦難は選択科目ではなく必須科目。でも必須科目の前半に過ぎません。後半がある。それが救いです。復活です。勝利です。栄光です。御国の相続です。前半は短い。後半は永遠。必須ですから永遠の後半部分は必ず受け取れる。苦難は主の御手の中へ、主の救いへ、主の栄光へ導き、確かにするものなのです。

8月8日(日)の礼拝は、詩篇32.1-11から、「幸い。罪赦される」と題してメッセージです。


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