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信仰の柔らかな風

私は琵琶湖の近くに住んでいます。上を見上げれば広い空。下を見れば広い湖。暑い夏でも風が吹いて、体にまとわりつく蒸し暑さを和らげてくれます。イエス様が活動されたのはガリラヤ湖周辺。「竪琴の海」とも呼ばれました。琵琶湖と竪琴湖。どこか似ています。ガリラヤ湖にも風がよく吹きました。イエス様はその風を感じながら、船の上や丘の上からみことばを語り、人を癒し、悪霊を追い出されました。でも突然ガリラヤを離れ、『だれにも知られたくない』と、異邦人の町ツロに行き、家に閉じこもってしまわれました。一体何があったのか?8月15日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.24-30から、「信仰の柔らかな風」と題してメッセージです。

信仰の無風状態

これまで、イエス様は多くの人を癒されました。しかし律法学者は「なぜ罪を赦す権威があるんだ」「なぜ安息日を守らないんだ」とつぶやきました。イエス様は多くの人を悪霊から解放されました。しかし律法学者は「悪霊を悪霊のかしらの力で追い出しているんだ」と悪口を言いました。イエス様は故郷の人々にも理解されませんでした。弟子たちもイエス様からのチャレンジを「無理です!」と拒否ったり、嵐の中でイエス様を「幽霊だ~!」と見間違ったり。ネガティブ反応のオンパレード。人の心から出てくる「汚すもの」にもううんざり?息が詰まりそう?ガリラヤ湖にいくら爽やかな風が吹いても、イエス様には人の不信仰がまとわりつく。信仰の無風状態。気分転換にイエス様のことがあまり知られない町へ行かれ、家に引きこもってご自愛なさったのではないか?

信仰の風が吹く

でも隠れることはできませんでした。汚れた霊につかれた娘をもつ異邦人の女性が訪ねてきました。イエス様のことを聞きつけ、駆けつけ、ひれ伏し、娘の癒やしを懇願しました。でもイエス様は、そっけなく『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです』。『子どもたち』はユダヤ人。『小犬』はお母さん。当時ユダヤ人にとって「犬」は野良犬。汚れた人や異邦人を侮蔑するときに使う言葉。お母さんは二重の意味で侮辱を受けかねない。でもイエス様は、ユダヤ人の不信仰に疲れてここへ来たのでは?熱心に求めるお母さんに『小犬』呼ばわりして失礼では?でもお母さんは『小犬』という言葉をガッツリ拾いました。『主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます』。『小犬』は飼い犬を指す言葉。しかも家の中!特別待遇!愛されている!イエス様のユーモアあふれる、温かなまなざしが注がれている!なんという大胆な切り返し。「ええイエス様。誰に言われなくても私は取るに足らない者。汚れた者。だからあなたなのです。あなたのお言葉は、たとえパン屑のような『ひとかけら』であっても、その恵みと力は変わることはありません」。

働きが前進する

イエス様は、ユダヤ人も異邦人も関係なく、この信仰の風を待っておられた。与えても吹かない信仰ではなく、与える前から吹く信仰。イエス様はお母さんの信仰に感嘆されます。『女の方、あなたの信仰は立派です』(マタイ15.28)。お母さんは癒された娘の元へ戻って行きました。この後イエス様は『再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られ』ました。イエス様はお母さんの素直で柔らかい信仰の風を受けて、再び前進されました。イエス様は神の子。全能のお方。人々に信仰がなくともみわざはできます。でもそれはなんと味気ないことか。イエス様は私たちに向き合い、私たちの信仰の風を受けて、みわざを行うことを楽しみにしておられます。私たちの信仰を期待して十字架の贖いと復活の恵みを用意して待っておられるのです。

ユーモアあふれた温かなまなざしのイエス様へ、私たちが大胆に信頼することで、私たちもそのユーモアと温かさを学び、主のみわざを日常生活へ持ち帰っていくのです。華々しくもパッと散っていくような奇跡ではなく、地味だけれども地に足ついた「麗しい日常生活」という奇跡のみわざが進んでいくのです。

8月22日(日)の礼拝は、詩篇33.1-22から、「幸い。主に真っ直ぐな私たち」と題してメッセージです。


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