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すべてを献げたやもめ

年に数回ある第5週の日曜日は、「祈りについて」「賛美について」というテーマでお話ししてきました。今回から「献げる」というテーマです。8月29日(日)の礼拝は、マルコの福音書12.41-44から「すべてを献げたやもめ」と題してメッセージです。すべてを献げたらスッカラカンにならないか?聖書がいう「すべてを献げる」とは?

多いか少ないかか? 12.41-42

イエス様は、神殿の「女性の庭」の献金箱の前に座っておられました。女性専用の庭ではなく、女性も入れるエリアです。神殿には異邦人も入れるエリア、ユダヤ人女性も入れるエリア、そしてユダヤ人の男性だけが入れるエリアと分けられていました。女性の庭にはいくつもの指定献金箱や自由献金箱がありました。金属製で投入口が小さく、中が広がっている構造だったので、金持ちがたくさん入れると、ジャラジャラ盛大な音がして人目を引いたに違いありません。そこへ貧しいやもめ(夫を亡くした女性)がやって来て、レプタ2つを献げました。レプタは「薄い」という意味で、当時の最小貨幣。献金は最低2レプタ以上とも言われました。だから最少額の献金。パランパラン。イエス様はそんな人々の様子を『見ておられた(観察しておられた)』。人がどれだけ多く献げるか見張っておられたのか?大量投入の金持ちには「よしよし」、レプタ二つのやもめには「それだけか?」なんて思っておられたのか?いいえ。このやもめを感動をもって見ておられたのです。

一部かすべてかか? 12.43-44

『まことに』は「アーメン」という言葉。イエス様がこの言葉を使われるときは、よほど大切なことを言われるとき。イエス様はやもめが一番多く献げたと評価されました。「イエス様は残高を見ておられるのだ」と言う人もいます。でもそれって、スッカラカンになった方が評価高いの~?と突っ込みたくなります。イエス様の言葉の中に『生きる手立ての』という言葉があります。他訳では「生活費」と訳されていますが、「生命」「人生」「一生」という意味もあります。イエス様は彼女が自分自身をすべて神様に投げ入れた(献げた)と評価されたのです。イエス様はこのことを弟子たちに向かって語られました。弟子たちはすべてを捨ててイエス様について来たはずです。でも今の今まで「弟子として誰が一番偉いか」「私たちをイエス様の右大臣左大臣にしてください」「金持ちが神の国に入れないなら、一体誰が救われるのか?」みたいな話ばかりしていました。そんな弟子たちに、イエス様はこう言いたかったのではないか。「この女性こそ、私の弟子だ」。

イエス様はご自分を献げられた

イエス様が観察しておられたのは、お金の多少ではなく、自分「を」献げたかどうかです。この話しは火曜日のこと。その金曜日にイエス様は十字架にかかられます。私たちを救うためにご自分をすべて献げられたのです。で、スッカラカンになったか?ますますあふれ、ますます与えるお方となった。復活を遂げ、天に上り、私たちに罪の赦しと、永遠のいのちと、新しい復活の体と、栄光の御国を与えることができるようになった。その保証として聖霊様まで与えられた。神様に自分を献げることで、あふれるほどに分かち合うことができる。それが「すべてを献げる」の真実です。今回『投げ入れる』という言葉が何度もありました。言葉を換えれば投資です。資源を投げ入れる。私を神様に投げ入れる。神様への投資。見返りを期待していいのか?動機が不純ではないか?いいえ。私たちは神様にこそ見返りを期待すべきです。金持ちたちはほとんど自分「に」投資し、神様に一部を投資していただけ。自分「を」投資したのではありません。しかしやもめは神様の懐に自分「を」投資した。それが一番安心安全。スッカラカンになるのではなく、そこからあふれ分かち合えるようになるのです。

聖書はやもめの「その後」に何も触れません。その後の話しは彼女から直接聞けることを楽しみにしています。なぜなら、彼女も私たちも主の弟子。父なる神様の懐に身をゆだねた、主と同じ神の子たち。そして主と共に御国を相続する者だからです。新世界において霊的祝福である栄光の富を分かち合いながら、旧世界における人生の後日談に花を咲かせたいと思います。

9月5日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.15-23から、「新しい共同体に与えられるもの」と題してメッセージです。


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